六角の井


鎌倉駅より小坪経由逗子行きバスに乗り、飯島のバス停留場にて下車します。 海岸線に沿た自動車専用道路の跨道橋の下を潜り抜け、海岸線に沿って崖下の小道を小坪方面に進みますと、 右手に周りを石で囲い屋根を設けた井戸が見えてきます。 六角の井 この井戸が「六角の井」(ろっかくのい)またの名を「矢 根の井」(やねのい)とも呼ばれている、 鎌倉十井(かまくらじゆっせいの一つです。

吾妻鏡の寿永元年(1182)11月10日の記録に、「源 頼朝が妾の亀前を飯島に囲っていましたところ、 この事が妻政子に知られてしまいました。大変に怒った政子は、家臣の牧三郎宗親に命じて亀前の家を打ち壊してしまいました。 これを聞いた恐妻家の頼朝は妻に直接文句も言えず、八つ当たりをして牧三郎の髷を切落としました。 政子の父親の北条時政は立腹して郷里の伊豆に引籠もるなど、鎌倉幕府の中は大騒ぎになりました。」と書いてあります。

同じく承元3年(1209)5月28日の記録には、「西浜(飯島)の付近で騒ぎがありました。 梶原家茂が小坪の付近に遊びに行った帰り道のことです。 前々から家茂に対し快く思っていなかった土屋三郎宗達と和賀江の付近にて両名が出会った結果、 土屋は梶原を殺害をしてしまいました。」書いてあります。

この結果、土屋三郎宗達は和田義盛に預けられる身となり、後の建保元年(1213)5月の和田合戦において、 義盛に味方をして戦死したと述べています。

この騒ぎの際に、 梶原家茂はどの道を通って小坪に通ったかは不明ですが、当時は小坪と飯島との往来の道は、 光明寺の裏山を抜けていく小坪路か海側の道を通るしかないと考えられますので、 現在使われている道とほぼ似たようなところを通ったと考えて良いと思われます。

和賀江島

昔は、海側の道は鎌倉でも随一の風光明媚な素晴らしい道で、海岸の崖下を通り小坪へと通じていました。 現在は、素晴らしい景色の海は埋め立てられて無残な姿になってしまいました。

「六角の井」は古くから使用されている鎌倉十井の一つです。新編鎌倉志に「鎌倉の南に六角の井と云う名水があり、 この井戸は鎌倉十井の一つです。井戸の周りを石を用いて囲んで有いす。」と現在も昔と変わらぬただずまいをしています。
井戸の海側には、往時の築港の一つの「和歌江島」に接しています。

和賀江島

和賀江島(わかえじま)は、わが国において現存する最古の築港跡で、国指定の史跡になっています。

源頼朝が鎌倉に武家の幕府を開いて以来、海路による物資の往来が激しくなりました。 中世の紀行文「海道記」に当時の鎌倉の海の賑わいを次のように述べております。 「申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。暫く休みて、この所みれば、数百艘の船、とも縄をくさりて、 大津(琵琶湖の港)の浦似たり。千万宇の宅、軒をならべて、大淀の渡りにことならず。云々」と当時の鎌倉の浜辺の賑わいが描かれています。 然しながら、鎌倉の海岸は外洋に接しており、荒天の際には大変に波が荒れるので、 船舶の接岸には困難を極めたと考えられます。

和賀江島の築港の建設に就いては、吾妻鏡の貞永元年(1232)7月12日の記録に、 「勧進上人往阿弥陀仏(かんじんひじりおうあみだぶつ)から、鎌倉の海岸は船の荷卸が大変に困難であるので、 和賀江に築堤を築き港としたいと幕府に申し出をしました。時の執権北条泰時はこの申し出に大変に喜び、 幕府も協力して築港工事を行った結果、同年7月15日に築堤工事に着手し、 8月9日には竣工検査を実施した」と述べています。

鎮西八郎為朝伝説

土地に伝わる伝説によると、昔強弓をもって知られた鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)が、 保元の乱において為義に従い崇徳上皇方についたが敗れ、伊豆大島に流されたました。 為朝が弓を引く力が衰えたかを試すために、伊豆大島より鎌倉の材木座海岸にある、 光明寺裏山の天照山をめがけて遠矢を放ちました。その矢は18里の洋上を飛び越えて、 六角の井の中に落ちたと云われています。

村人が落ちた矢を取り上げようとしたところ鏃(やじり)は井戸の底に残ってしまいました。 今でも井戸を浚うと井底に鏃が見えたそうで、ある時に鏃を井底より取り出して明神様に奉納したところ、 井戸水が涸れてしまいました。これに驚いた村人が、鏃を井戸の中に戻すと、 井戸は再び元のように水が湧き出しました。鏃の長さは四五寸ばかりありました。

井戸の傍らの説明文によると、井戸の形は八角形で、六角が鎌倉分で二角が小坪分です。 以前は井戸替えの際に鏃の入った竹筒を使用しましたが、ある時これを怠ったために悪い病が流行ったといわれています。 それ以来鏃は竹筒に封じて井戸の中に奉納してあると言い伝えられています。

光明寺

浄土宗大本山です、正式には天照山蓮花院光明時(てんしょうざん・れんげいんこ・うみょうじ)といいます。 光明寺の二重門
開基は北条経時で、開山は記主禅師然阿良忠(ねんありょうちゅう)と云われています。 鎌倉に入った然阿良忠のために、北条経時が佐助が谷に蓮花寺を開きました。後に現在の材木座に移し、 名称を光明寺と改めました。明応4年(1495)に後土御門天皇は光明寺を勅願寺とし、 十夜念仏の法要の実施を勅許しました。 現在でも毎年10月12日から15日まで念仏会が行われます。今でもお十夜と呼ばれ、大勢の参拝客にて賑わています。 昔は境内に見世物小屋や等が並び大変な盛況でした。

山門は現存するものとしては鎌倉において最大の二重門の名建築です。 鶴岡八幡宮の社門を移築したと言われています。江戸時代に、 徳川家康が浄土宗学問所関東十八壇林を決めた時に第一位になり、大変に繁栄をしました。


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