古代の旧東海道は、京都より東へ進み箱根山を越えて相模国に入り、鎌倉を通り抜け走水から舟に乗り、房総半島の上総に上陸したと言われている。この様に当時は街道の一通過地点であった鎌倉は、滑川を始めとして幾つかの河川が流れ、人々の往来の妨げになっていた。

 旅人は如何なる方法により、これら河川を渡ったのであろうか?川の中を膝まで流れに没して歩いて渡ったのか、或は立派な橋が架けられて楽に渡れたのか。

 また、橋が架けられていたのならば、この橋を巡り如何なる物語が繰り広げられたのか、大いに興味の有る所である。

 これから八百年前の鎌倉にタイムスリップし、中世都市の橋の世界を彼方此方と訪ね歩くとします、一緒にどうぞ!


鶴岡八幡宮太鼓橋





 源頼朝は、旧東海道沿いの一寒村たる鎌倉に入り、武家政治の中心地として幕府を開き、鎌倉の町に道を作り橋を架け等して、中世都市の整備を進めた。この時の都市計画の詳しい様子に関しては、鎌倉幕府の公式記録の一つである「吾妻鏡」に詳しく述べられている。

 吾妻鏡の文治四年(1188)一月二十一日の条に、当時の相模川を如何様にして渡ったかを述べている。

「源頼朝が伊豆、箱根、三島の各神社に参拝する二所詣でに際し、神奈川県の中央付近を流れる相模川に浮橋(川に舟や筏を並べて浮かし、その上に板を敷いて人や馬等を渡らせた仮の橋)を架けた」

 相模川の様に川幅が広い河川には、当時は未だに常設の橋を架けず、必要に応じて浮橋を架けた様子が、吾妻鏡に記録されている事は実に興味深い事である。

国指定遺跡の相模川橋脚
旧相模川橋脚
旧相模川橋脚

 この相模川に、十年後の 建久九年(1198)に橋が架けられた。頼朝の妻政子の妹が亡くなり、夫の稲毛重成が亡妻の冥福を祈り、相模川に橋を架けて供養を行った。頼朝は、十二月二十七日の橋供養に参列し、その帰りに落馬した事がもとで正治元年(1199)一月十三日に亡くなったと云われている。(保暦間記他。頼朝の病死には諸説あり。)

 この様に東海道の相模川には仮設の浮橋から恒久的な橋に架け替えられ、人々の旅の往来に大変に貢献した。

稲毛重成が橋梁を架けた約七百二十数年後、大正十二年(1923)九月に関東大震災が発生した時の事である。茅ヶ崎市内を流れる小出川の河口付近の地盤が沈下し、直径約六十糎の桧材の橋脚十一本が地中より現れた。                                             

平成13年発掘調査
橋脚発掘調査

この杭が重成の架けた相模川の橋の橋脚と云われている  (国指定史跡)。

平成十三年茅ヶ崎市により発掘調査が行なわれた結果、池面で確認できなかった橋脚二本を加えて九本が確認された。
この橋脚は規則的に配置されており、その下部の形状は細く加工されるなど、鎌倉時代の橋梁建設技術の水準の高さを窺い知る事が出来る。




 ○案内:JR茅ヶ崎駅北口より平塚行バスにて「今宿」下車 徒歩5分。






 吾妻鏡によれば、当時の鎌倉の町には「下馬橋」「筋違橋」「亂橋」等の橋の名が見受けられる。今から八百年前に、鎌倉の町には既に幾つかの橋が架けられていた。今日においても、昔と同じ名の橋を我々が使用している事に、大いなロマンを感じるのは私だけであろうか!
 この度は、江戸時代から伝えられている「鎌倉十橋」を巡り歩き、中世都市鎌倉のロマンを求める事にした。

 鎌倉十橋とは、昔より鎌倉に伝わる「鎌倉の名数」の一つである。その謂れを調べてみると、次のような事が判明した。
 徳川光圀が延宝二年五月(1674)に鎌倉を巡視し、その見聞録を「鎌倉日記」として纏めた。その後、家臣の河井恒久等に命じ、鎌倉の地誌「新編鎌倉志」(1685)を編纂した。この両書を比較して見るに、鎌倉日記には名数は見られず、鎌倉志には「鶴岡八幡宮の記録」より採用と記載されている。例えば「鎌倉谷七郷とは、小坂・小林・葉山・津村・村岡・長尾・矢部」と七郷の事を記している。その他に七口、十橋、十井、五水の名が見える。以上の事から、「鎌倉の名数」は鶴岡八幡宮社務次第より称される様になり、新編鎌倉志、鎌倉攬勝考(1829)により次第にその種類を増やし、新編相模国風土記稿にて集大成され「鎌倉の名数」として、現在に至っていると考えられる。

 さて「鎌倉十橋」であるが、新編鎌倉志に依ると「鎌倉十橋と言うのは、琵琶橋、筋違橋、歌の橋、勝の橋、裁許橋、針磨橋、夷堂橋、逆川橋、乱橋、十王堂橋」と述べている。

鎌倉十橋の橋標(はし しるべ)

 鎌倉の名所旧蹟には立派な石碑が建てられている。大正から昭和にかけて、当時の町の青年団により建てられたものである。鎌倉十橋のうち筋違橋、歌の橋、夷堂橋、乱橋及び針磨橋の五橋には大きな石碑が建てられ、橋の故事来歴が述べられている。 この石碑とは別に、橋の際に高さ約五十糎、幅二十四糎位の道標に良く似た小さい石柱が建てられている。この石柱を道標(みちしるべ)に準じた橋の案内標識である事から、本稿にては橋標(はししるべ)と名前を付ける事にした。  この橋標を設置した当時は、十橋全てに建てられていたのであろうが、その後の道路改修工事等により失われたのか、確認できたのは琵琶橋、筋違橋、歌の橋、勝の橋、針磨橋、逆川橋及び乱橋の七橋のみである。

 この橋標に何が書いてあるのか、皆さんも大変に興味がある事と考えられる。そこで「筋違橋」を例に説明をする。

筋違橋の橋標

表面

裏面

右面

左面

 上の写真は筋違橋の橋標を、左から右に表面・裏面・右面・左面の順に並べてある。
 橋標の表面には「十橋之一筋違橋」と書かれている。裏面には「明治四十三年十月建 鎌倉保勝会」とこの橋標を建てたグループの名称が書かれている。右面には「東北方 源 頼朝邸跡」と大倉幕府跡を案内している。左面には「南約一町北条邸現宝戒寺」と宝戒寺を案内している。




鎌倉十橋を歩く

 中世の橋の世界を歩くに際し、鎌倉十橋が何処に有るのかを予め知る必要がある、鎌倉の略図にその位置を記して下図に示す。目的の橋に行くには橋名をクリックして下さい。

地図