裁許橋


問注所跡・石碑
問注所

 JR鎌倉駅西口より市役所前の交差点を左に曲がり、今小路(いまこうじ)を六地蔵方面に南下す。御成小学校を右に見て進むと、学校の敷地の外れに佐助川が流れ、ここに架かる小橋を裁許橋(さいきょばし)と称す。

 鎌倉時代には、この近くに幕府の裁判所があり(御成小学校の正門前の道角に問注所旧蹟の石碑有り)、判決を受けた罪人が処刑場に向かう際に、この橋を渡った事から裁許橋の名が付いたと言われている。まさに、イタリアのヴェネツィアの運河に架かる「ためいきの橋」の日本版と言うところか!又の名を「西行橋」(さいぎょうばし)とも言う。

裁許橋の親柱(橋標は見当らず)

裁許橋・親柱
 源頼朝は武士の棟梁として征夷大将軍の地位まで上り詰めた。また一方、政治家としても立派な業績を残している、その一つに鎌倉幕府の政策がある。

 幕府を三大機関により構成し、最も重要な機関を「政所」とし大江広元を責任者に当て、文書の作成、財政事務取扱いを行った。
 「問注所」には三善康信を責任者に当て、裁判事務を取り扱った。「侍所」には和田義盛及び梶原景時の二人を当て、御家人の統括を行った。

 元暦元年(1184)より、問注所は大倉の幕府の建物の一部を使用して裁判を実施していた。その後の建久三年(1192)の事である、熊谷直実と叔父の久下直光が領地の境界の事で争い、頼朝の御前にて対決した時に二人は大論争となり、論争が苦手な直実は叔父に言いまくらて立腹し、自らの髷を切り落してその場から蓄電し行方不明となる等大騒ぎとなった。

 その後は、大倉幕府内の問注所にての業務を停止し、長官の三善康信の名越の自宅にて裁判を行っていた。二代将軍頼家の代となり、建久十年(1199)四月に問注所を現在の御成小学校の門前の石碑が建てられている付近に移転した。この新たな問注所にて判決を受けた罪人が、処刑場に引かれていく時に渡った橋から、裁許橋の名が付いたと言われている。

 
六地蔵
六地蔵
またの名を西行橋とも言う。文治二年(1186)に頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した時に、鳥居の付近を一人の老僧が徘徊していた、その名を聞けば佐藤義清法師こと西行と称した。頼朝は早速に邸に招き入れ、夜を徹して兵法等の話を聞き、翌日におよびて頼朝は西行に銀製の猫の像を送ってその労を謝した。西行は帰り道に鳥居付近にて遊んでいた子供たちにこの銀猫の像を与えたとの話がある。西行がこの橋にて行き悩んだ事からこの名が付いたとの説がある。

 新編相模国風土記稿には橋長は六尺余(約1.8米)とある。現在は暗渠となり上流側は4米、下流側は1.6米と撥型をしている。

 ○ 案内:JR鎌倉駅西口より市役所手前の信号を左に進む 徒歩5分。