逆川橋


逆川橋(さかさがわばし)は、夷堂橋より小町大路を南下し大町四つ角を横切り、魚町橋(いおまちばし)を渡ると道の左手の路傍に橋標が少々傾いて建っている。橋標の手前に左に曲がる小道が有り、そこに小さな橋が架かっているのが見える。例によって、これが鎌倉十橋の一つかと目を疑うような規模の橋である。

十橋之一逆川橋の橋標

逆川橋・橋標
 逆川とは逆に流れる川の事を指す。中世の紀行文「海道記」(作者不明。貞応二年(1223)四月に京を出て鎌倉に向かう旅行記)に「宿を逆川(神奈川県の酒匂川)と云う所に泊る。潮が満ちる時に上流に向かって水が流れるので逆川と云う」と有る。満潮の時に、河口から海水が逆流する現象は多く、一般にこの現象が見られる河川をを感潮河川と呼ぶ。

 ここで言う逆川は海道記の場合と異なり、この川固有の現象である。鎌倉の川は山から海へと、北から南へと流れているのが多い。逆川の場合は地形の関係から川の一部が南から北へと他の川とは逆方向に流れ、その後は大町と辻町の境の魚町橋より南西に向きを変え、上河原付近より滑川に合流している。この様な事から逆川なる名が付いたと考えられる。

 新編鎌倉志に逆川は名越坂より西北方面に流れている、故に逆川と称す。大町と辻町の間を流れて滑川に合流する。大町と辻町の間に橋がある、逆川橋と言い鎌倉十橋の一なりとある。
 新編相模国風土記稿にも凡そ同じような記述がある。更に長さ約九尺(2.7米)と称している。現在の橋を歩測により測ると、幅員は2.5米、橋長4.5米となり、河川改修により川幅が少々広くなつたのか?
 吾妻鏡の建長三年(1251)十二月の条に、鎌倉の彼方此方に散在している商店を九ヶ所に纏めて商業地区を設けた(筋違橋の項参照)とある中に大町と米町の名が見られる。
建保元年(1213)五月の和田合戦の条にも大町大路、米町、辻等の名前がしばしば出てくる。例えば、北条泰時が大いに力戦したので和田義盛は兵を由比ヶ浜に退却させた。また、米町の辻、大町大路においても合戦が有り、幕府軍は勝ちに乗じて云々と述べている。
魚町橋と大町四つ角
魚町橋

 この様に史書・地誌等を見てくると、現在の逆川橋の位置が小町大路より少々外れた所に有るのが気になる。南から北に流れている事から確かに逆川には間違い無いが、地誌にある「大町と辻町の境にあり」との表現に対し、橋の位置が些か脇にずれた様な感じがする?
先日、明治初期に日本に印刷技術を教える為に来日し、鎌倉の材木座に住んでいたと言われるイタリア人キヨソーネ展にて、キヨソーネ氏が作成したと言われる鎌倉の地図を見たが、今の魚町橋の位置に逆川橋と書かれていた。


 ○ 案内:JR鎌倉駅より小町大路を大町四つ角へ徒歩10分。