筋違橋


 筋違橋(すじかえばし)は、吾妻鏡に屡その橋の名が見える。筋違橋の他に筋替橋須知替橋須地賀江橋あるいは違橋とも書く。筋違橋の名前は、単に橋を指すのみならずこの付近の地名として使用したようである。

筋違橋は、鶴岡八幡宮東の鳥居に有る横浜国大付属小学校正門前の道と、金沢街道との交差点に位置する。この地は、往時は小町大路と横大路と六浦路(金沢街道)の三大路が接続し、且つ直角に曲がる場所である。ここに西御門の谷より流れ来る小流が、道路を斜めに横切り滑川に合流す。橋は道路に対し斜めに架けられた斜橋であった事から、この様な名が付いたと言われている。昭和三十年頃に道路の拡張工事が行われ、橋梁を暗渠に変えた結果、現在は北角の道路脇にやっと立っている石碑と橋標により、往時の橋の存在を知る事が出来るのみである。

新編相模国風土記稿に依ると、昔の橋の規模は「横大路より大倉に至る町角の小流に架けた石橋にして橋長二間」と表している。一方、明治の後半に写した思われる写真を見ると、川の中央に橋脚が有る二径間の石橋の様に見える事から、橋長3.6m(=2@1.8m)の二径間の単純石橋と思われる。

十橋之一筋違橋の橋標

筋違橋・橋標
 往時は、この付近は鎌倉の中心地のようである。西に鶴岡八幡宮、北東に頼朝が開いた大倉御所(清泉小学校付近)、若宮大路に沿って三の鳥居の近くに、北条泰時・時頼邸、若宮御所、宇都宮辻子御所などの鎌倉幕府の政治の中心地であった。また、鎌倉の町の中に彼方此方に散在している商店をまとめ、九ヶ所にて商業地区を許した。その場所は「大町・小町・魚町・穀(米)町・武蔵大路下・須地賀江橋・大倉辻」と吾妻鏡に述べている。この様に、筋違橋の近辺は政治の中心でもあり、商業の中心でもあったと言える。

筋違橋の北方、鶴岡八幡宮の山裾付近に、頼朝の旗揚げに功績のあった三浦義澄の孫の三浦泰村の邸があった。秦村は北条時頼と姻戚関係にあり、信任も厚く勢力が強大であった。一方、同じく頼朝の旗揚げに功績のあった、安達盛長の嫡子安達景盛は、同様に北条時頼の外戚として大いに勢力があった。景盛はかねてより秦村の勢力のあるのを妬み、三浦に謀叛の噂が広がったのを機会に、三浦を滅ぼすべく思っていた。今を去る事約七百五十数年前の宝治元年(1247)六月五日のことである。安達景盛は、一族と共に甘縄の邸を出発し、若宮大路より鶴岡八幡宮の赤橋に至り、筋違橋の北から鏑矢(かぶらや)を飛ばし、三浦秦村との戦が始まった。これが宝治合戦の始まりである。秦村は兵を出し防ぎ戦ったが、隣家に火を放たれて破れ、遂に頼朝の法華堂に一族郎党を集めて、頼朝の影像の前にて腹を切って総員自害し、三浦一族はここに亡びた。


 ○案内:JR鎌倉駅よりバス太刀洗・大塔宮行バス大学前下車徒歩1分