歌の橋


歌の橋(うたのはし)は筋違橋(すじかえばし)より金沢街道を東に進み、岐れ道を過ぎてしばらく行くと荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)の参道入口に到達する。この参道口の少々先に小さな橋が架けられている、この小橋が歌の橋である。橋の下には二階堂の谷より流れ来る二階堂川が流れ、滑川に合流している。
橋の左岸上流側の狭い空き地に歌の橋の石碑が建ち、橋の故事来歴を述べている。同じく橋標には「十橋之一歌の橋」と書き。更に神奈川県橋100選に選ばれた記念の名板が、同様に並べられているのが目新しい。

十橋之一歌の橋の橋標

歌の橋・橋標
 歌の橋とは優雅な名称が付けられた橋である。実は、この橋の名の由来には謀叛と言う恐ろしい事件が隠されている。

今を去る事、約七百八十数年前の建保元年(1213)二月のことである。千葉成胤が一人の怪しい僧侶を捕らえ、第二代執権北条義時に差し出した時から事件は始まった。
この僧侶の名は安念と称し、安念法師の自白により謀叛のことが発覚した。

謀叛のこととは、信濃の国に泉 親平と称す者が、源頼家の遺児の栄実(頼家の三男で幼名を千寿丸)を担いで将軍とし、執権の北条義時を倒そうとの陰謀を企んだ。この陰謀の一味に、和田義盛の子息の義直・義重及び甥の和田胤長が組していた事から、三ヶ月後の五月に起きた和田合戦の発端ともなった。

さて歌の橋の由来であるが、この謀反の一味二百人の中に渋川刑部六郎兼守と称す御家人がおりました。渋川兼守は捕らえられて安達景盛(筋違橋で始まった宝治合戦の首謀者)に預けられる身となった。
いよいよ明日朝に処刑されるとの事を聞き、大変に悲しんだ兼守は十首の歌を詠んで荏柄天神社に奉納した。
荏柄天神社
荏柄天神社


ところが、たまたま昨夜より天神社に参篭していた工藤祐高と称す御家人が、帰りがけに兼守の奉納した歌十首を受取、この歌を幕府御所に差し出しました。
幼少より和歌に関心の深い将軍実朝が、この歌を見て大変に感動して兼守の罪を直ちに許されました。

この恩赦に感激した渋川兼守は、将軍の恩に報いる為に二階堂川に橋を架けて寄付した。このようないわれから橋の名を「歌の橋」と呼ばれる様になった。
新編相模国風土記稿の記述に、歌の橋の規模は長さ三間(約5.5m)と述べている。現在の橋の長さは同じく約5.5mで昔と変わらない規模と考えられる。


 ○ 案内:JR鎌倉駅より金沢八景・太刀洗行バス「杉本観音」下車 徒歩3分。