トピックス

2017.11.14


ガイド技術向上プロジェクトの一環で、「シンポジウム及びグループ・ディスカッション」が開催されました。
ベテランガイドのパネラーによるプレゼン後は、パネラーを交えての活発な意見交換。
ガイド説明内容の組立て、話の内容・話し方、顧客とのコミュニケーション、ガイド時のマナー等、協会あげて、ガイド技術のレベルアップに努めています。


2017.11.11


鎌倉ガイド協会が加盟する協議会が共催し神奈川県が後援する「まち歩きツアー」です。鎌倉ガイド協会は専門ガイドとして平成30年2月21日(水)の「まち歩きツアー」に参画する予定です。乞うご期待!!


2017.10.16


めっきり秋の気配が感じられるようになりました。
鎌倉ガイド協会は史跡めぐりの下見を各コース共、数回行っています。その際、清掃ボランティア活動も忘れていません。
秋にお薦めの企画が目白押しです。奮ってのご参加、お待ちしています。


2017.09.26

日時 10月22日(日)13時~14時30分
場所 鎌倉市教養センター大教室
   鎌倉市笛田2-17-1(京急バス鎌倉山バス停徒歩8分、江ノ電バス深沢バス停
   徒歩12分、江ノ電バス教養センター前徒歩1分)
   鎌倉市教養センターは、鎌倉市内にお住まいの60歳以上の方が利用できます。
講座 鎌倉市教養センター文化祭公開講座
   テーマ「鎌倉と夏目漱石~参拝百年記念碑をめぐる人々~」
講師 関谷哲雄(鎌倉ガイド協会会員)
お問い合わせ(鎌倉市教養センター)
   ℡0467-32-1221 Fax32-1203
皆さんの参加をお待ちしています。(お車での来所はできません。)


2017.09.26


テーマは「-日本の仏像美術の流れー」、講師は鎌倉ガイド協会会員の金子俊明さんです。
金子さんの講演要旨は以下の通りです。
はじめに
本日は仏像の歴史、仏像の変遷についてお話をします。時代的には鎌倉時代には仏像の形式がほぼ固まったので鎌倉時代までになります。以前「仏像の歴史」の講座があり受講しておりました。長く受講する気持ちはなかったのですが、3年3か月でようやく運慶が登場しました。今日は3年3か月を2時間に纏めてお話をいたします。ガイドをする中で仏像はかならず出てきますので、ガイドの時に役に立てていただきたい。
1、 仏教伝来と仏像
1)百済の聖名王が仏教を伝え、天皇に金銅製仏像等を献じたが、疫病が流行り「播神」とされ、仏像は難波の堀江に捨てられた。
2)百済から渡来した鹿深臣が弥勒菩薩石像1躯をもたらし、大野丘北に堂を建て法会を行った。その後疫病が流行りその理由が仏会のためとされたので、仏像、仏殿を焼き残った仏像は難波の堀江に捨てられた。
3)用明天皇が病に倒れられて「自分は仏法僧の三宝に帰依したい」と述べ崩御。蘇我・物部・中臣と争い、仏教崇拝者が勝利したため仏教崇拝が始まり崇峻天皇の時代には仏教の興隆をみた。
4)東博法隆寺献納宝物143号の如来と脇侍のように、渡来人によって請来されたと思われる小金銅仏が今でも存在している。
2、飛鳥時代の仏像(7世紀)
大寺院の造立とともに多くの仏像が制作された。前半は朝鮮半島の影響が強く、後半白鳳時代になると遣唐使の派遣により大陸の影響を受けるようになった。
1) 飛鳥寺の釈迦如来である飛鳥大仏は推古十三年(605)仏工鞍作鳥により着手、完成は翌年。現存する最古の仏像である。鎌倉時代の火災で破損し、当初部は両眼、鼻、額を含む顔の上半分や右手の第一指~三指などごく一部となっている。
2) 法隆寺の金堂に祀られている金銅製釈迦三尊像は推古三十一年(623)の造立、司馬鞍首止利仏師の作。両眼を見開き、口元はアルカイックスマイル、左右対称の正面観照性(像に厚みが無い)が特徴。
3) 法隆寺夢殿の救世観音は樟の一木造り。木彫像として最古の作品である、半島系の仏師により制作されたか、推古天皇に奉献された請来仏であろう。左右対称性、正面観照性。
4) 法隆寺百済観音は白鳳時代の作。日本人により作られた日本人的な表情で写実的になった。
5) 広隆寺弥勒菩薩半跏像は半島系の仏師により制作されたか、献納されたもの。
6) 中宮寺弥勒菩薩半跏像は日本的な表現がみられ、優美で写実的な造形。
7) 7世紀半ばころから、唐との交流により、塑像、乾漆像、塼仏像などが制作された
当麻寺弥勒如来坐像は我が国最古の塑像で表面布目貼に金箔を施している。
当麻寺四天王像は乾漆像で我が国最古に属する
川原寺や山田寺跡から大量の塼仏が出土した。(塼仏は粘土を雌型の原型に押し当て写し取り乾燥させ焼いたもの)
3、奈良時代の仏像(8世紀)
仏教が天皇中心の政治体制を支える性格を帯び、寺院および仏像が盛んに造営された。仏像の制作は官営の工房に属する仏師がになった。
遣唐使や唐からの渡来僧による仏教美術の請来により唐風の造形と飛鳥以来形成された我が国の造形伝統が混交した。
1) 8世紀前半には金銅像では薬師寺の薬師三尊像や大仏があり。塑像では法隆寺五重塔本塑像・東大寺戒壇堂四天王立像・東大寺法華堂執金剛神立像、日光・月光立像がある。乾漆像では興福寺八部衆、十大弟子立像や東大寺法華堂不空羂索観音菩薩がある。
2) 8世紀後半ではカヤ、ヒノキを用いた木彫像の出現があった。唐招提寺に木彫像が多いこと、唐風の表現から鑑真の影響が考えられる。唐招提寺の像には白檀を用いて彫刻した檀像があり、日本では白檀が取れないので代用檀像としてカヤ、ヒノキ、カツラなどが使用された。中国で作製され日本に請来した多武峰伝来十一面観音立像や清凉寺釈迦如来立像がある。日本の檀像としては唐招提寺伝衆宝王菩薩像立像や伝薬師如来像があるが鑑真の一行の渡来工人の指導が推定される。奈良博の十一面観音立像、元興寺の薬師如来立像、法華寺の十一面観音立像、法菩提院の菩薩像がある。
3) 木心塑像や木心乾漆像が作られる 作例として聖林寺の十一面観音立像や唐招提寺の千手観音立像がある。
4、奈良時代末から平安時代前期(木彫像の確立)
仏教の展開により仏像の種類が増加した。玄昉が帰朝し密教経典を持ち帰った。空海も曼荼羅や密教経典を携え帰国した。これらの密教経典により明王像が作られた。木彫像が仏像の中心となった。
1) 密教像
天平以来の伝統とは異なる肉厚肥満、デフォルメ、呪い力の発言的表現が見られる仏像で神護寺薬師如来立像や東寺講堂の仏像群また新薬師寺薬師如来坐像及び観心寺如意輪観音像がある。
2)神像 東寺八幡神像や松尾大社の男女神像がある。
5、平安時代中期(和様の形成、寄木造りの初期)
1)和様のきざしともいえる高雅な品性と和らぎや華やぐ表現が見られるようになる。また一木造りから一木割り矧ぎを経て寄木造りが生まれた。和様として仁和寺阿弥陀三尊像や法性寺千手観音像、同聚院不動明王像がある。 
2)不動明王像には弘法大師様(作例としては東寺の不動明王で頭は総髪、頭上に蓮華、両眼見開く、上齒をかむ、左弁髪を垂らす)と天台系(頭は巻髪、頭上に七、天地眼、上下に牙を出す)がある。
3)寄木造りとしては六波羅蜜寺薬師如来坐像と広隆寺千手観音菩薩坐像がある。
6、平安時代後期(和様の盛期、寄木造りの発達)
寺院から独立し工房を構え院や有力貴族の造像を行う仏師が現れ、康尚、その子定朝により確立した。
1)仏師定朝は仏師康尚の子で弟子である。法眼についた。工房を持ち大仏師20人、小仏師105人を抱えた。作例は過剰な飾りのないなだらかさと明るさ大らかさをもった和様の達成をみた平等院鳳凰堂阿弥陀像がある。
2)定朝以降では覚助は名前の確かな作品は残されていないが、長勢には広隆寺薬師如来の脇侍像や二神将像がある。覚助の次世代には院助がおり院派の系譜をなした。長勢の弟子には円勢がおり円派仏師の始まりとなった。覚助にはもう一人の弟子頼助がおり、奈良に活動を移し奈良仏師と称された。
院派は院助の後に院覚が出て待賢門院による法服地蔵菩薩像や法金剛院阿弥陀堂の阿弥陀如来像がある。院覚の後は院尊で円派を凌ぐ活躍をした。平清盛の病気平癒のため薬師如来と十二神将を造仏、興福寺の復興は講堂担当として丈六阿弥陀三尊像を造立。後白河法皇の長講堂の阿弥陀三尊像も造立した。
円派では長勢の弟子円勢が円派仏師の始まりとなった。円勢の弟子に長円と賢円が出た。長円は仁和寺北院の薬師如来坐像が最初の造仏である。尊勝寺の造仏や白河院の宝荘厳院丈六九体阿弥陀堂の造仏を行った。賢円は白河院や鳥羽院の造仏を手掛け、鳥羽金剛心院の九体阿弥陀仏の造仏を院尊との共同制作で行った。
安楽寿院阿弥陀如来坐像は円派仏師賢円又は長円の作と想定されるが、鳥羽離宮東殿に建てられた三重塔の本尊で密教の妙観察智印を結び安定感に富んだ姿で面長薄く開いた伏し目と口唇衣文表現に定朝の写しではない独自性がみられる。
3)奈良仏師、慶派 
覚助の弟子頼助は興福寺伽藍復興に関わり「御寺仏師」と呼ばれた。頼助の息子康助は春日大社の造仏に携わる。また摂関家や鳥羽院関係の造仏に関わっている。後白河上皇御願の蓮華王院本尊が康助であるとする見解がある。康助の没後は康朝より若い傍系であるが康慶が奈良仏師を継承したとみられる。この康慶が慶派の租である。奈良仏師の作風は古典の伝統を踏まえた力強い作風であった。康助作と思われる北向山不動院の不動尊や康朝作とみられる七寺の観音菩薩・勢至菩薩がある。
7、平安時代後期から鎌倉時代前期(慶派仏師の新風)
1)康慶の活躍 
慶派仏師の統率者として興福寺や東大寺の再興に当たる。彫刻に現実性とリアリズムを追求した。興福寺では主要な堂の造仏ではなかったが、東大寺では二天像や大仏の脇侍像、四天王像を担当し独占的に造仏活動を行った。これは、鎌倉幕府との関係を作ったことによる。
康慶自身の作としては、この他瑞林寺地蔵菩薩像や興福寺南円堂不空羂索観音像などがある。
2)運慶、快慶の登場
運慶、快慶の共通的な視点で言えることは、現代に通ずる芸術性があり、仏像として彫刻作品として仏堂を離れても観賞できるということである。運慶は写実主義で外形をまねるだけでなく本質に迫る動態描写がある。 快慶は平安後期の優美さ、自身が浄土教に帰依しているので阿弥陀如来は来迎形である。
運慶の造仏は13件31体あり、円城寺の大日如来坐像がデビュー作である。 快慶の造仏は慶派仏師の中で作品数が多く端正な美意識がある。
3)運慶工房の仏師
快慶や康慶の弟子と考えられる定覚、実慶、宗慶、源慶、静慶、そのほかに定慶がいる。
8、鎌倉時代中期・後期(その他の慶派、院派、円派)
1)運慶の後継者 
運慶の子息には湛慶、康運、康弁、康勝、運賀、運助の6人がおり、大仏師運慶の下で小仏師として造仏活動に携わっている。湛慶は慶派仏師の棟梁として活躍し東大寺大仏師に補任された。晩年の作は後白河法皇の蓮華王院本堂千体千手観音像再興の大仏師となり中尊とその他9体がある。作風は温和な表現の中の微妙な写実に特色がある。康弁は東大寺南大門仁王像を小仏師として担当、単独では興福寺旧西金堂の天燈鬼像・龍燈鬼がある。康勝は単独作として東寺御影堂の弘法大師像がある。
2)その後の院派、円派
慶派の活躍が目立つが、宮廷貴族の世界では院派、円派が活躍している。法勝寺の九体阿弥陀堂の再興では隆円、院承、院継、院恵、院宗の5人が大仏師をつとめている。蓮華王院本堂の再興で造仏の数は院派が104躯、円派が42躯で慶派の22躯を凌いでいる。宝積寺の十一面観音立像は院範の作とされ穏やかな顔立ちやあさい彫りなどやわらかな上品な表現に平安後期の風を残している。
3)その他鎌倉時代の特色
現実主義の協調として裸形像や玉眼があり、頂相彫刻・宋様式の取り入れがある。
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いつもは金子さんとはあまりお話をしたことが有りませんでしたが、仏像の講座を熱い口調で話して下さいました。3年3か月の想いや重みの伝わる講座でした。先輩の皆様の勉強熱心なことに助けられている自分を思う2時間でした。金子ガイド有意義な講義有難うございました。(森川節子速記録)


2017.09.26


サブタイトルは-「甲斐源氏」の里で”鎌倉“に想いを馳せるーです。
コースは鎌倉・大船=《バス》⇒放光寺~恵林寺~信玄館(昼食)《バス》⇒甲斐善光寺~東光寺~かいてらす=《バス》⇒鎌倉・大船

甲斐の国では甲州市のボランティアガイドの方達に放光寺と恵林寺を甲府市のボランティアガイドの方達に善光寺と東光寺をご案内頂きました。お暑い中、それぞれの市のボランティアの方達四名で対応していただき心より感謝致します。
参加者は93名 10期生が入会したので参加者数が過去最高となりました。

1、―「甲斐源氏」の里、甲斐の国―
八幡太郎義家の弟である源義光の子義清が、甲斐の国に移り住み、その子孫が甲府盆地一帯に本拠を築いた「清和源氏一族」である。武田信義を棟梁に富士川の戦いの頃は団結していたが、頼朝派の加賀美氏、義仲派の安田氏、独立派の武田氏、一条氏などに分裂した。その後甲斐源氏は甲斐を基盤とし各国に御家人として勢力を広げた。代表的な存在としては武田氏、笠原氏、南部氏などがある。
2、放光寺
元暦元年(1184)源平合戦で功績のあった新羅三郎義光の孫安田義定が戦勝記念として館近くに建立した。もとは法光山高橋寺を移し高橋山多門院放光寺と改め、安田家の菩提寺とした。
義定は建久四年(1193)子の義資が永福寺の落慶供養式において名越邸で殺されると、頼朝の勘気を蒙り所領浅羽荘を没収され地頭職も免ぜられた。翌年梶原氏に謀反の嫌疑を受け甲州に落ちのびこの寺で自刃したと伝わる。
開基堂の毘沙門天は、梶原景則が義定の亡霊に悩まされ、義定を供養してつくったと伝わる。
その後放光寺は武田信玄が祈願所として寺領を寄進、天正十年焼失するが徳川家康の庇護を受け寺領を安堵され、仁王門、愛染堂は天正年間に、庫裏は慶長年間に再建された。寛永年間には柳沢吉保の援助を受け、安田若狭守宗雲が中興開山となり伽藍の整備がされ、現寺域の基礎をなした。
愛染明王像は「天弓愛染」と称される珍しい像である。
3、恵林寺
元徳二年(1330)に二階堂貞藤(道蘊)が、邸宅に夢窓礎石を招き開山した。甲斐臨済宗の中心となる。応仁の乱で荒廃したが、その後武田信玄が菩提寺となり復興した。天正十年(1582)織田、徳川連合軍による甲州攻めでは、寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)等の引き渡しを拒否したため、怒った織田信長は快川和尚はじめ約百人の僧侶らを三門に閉じ込め焼き討ちにする。快川和尚が「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と発し焼死した。その後、徳川家康が再建した。柳沢吉保は武田家に連なる一族、信玄の法要や寺内の修復に努めた。明王殿に祀られる「信玄生不動」は夢窓礎石築庭の池泉回遊式庭園は甲府八景にも詠まれる名勝庭園である。
4、甲斐善光寺
川中島の合戦で信濃善光寺が焼失するのを恐れた武田信玄は信濃善光寺の本尊善光寺如来をはじめ、諸仏、寺宝類を移すため、永禄元年(1558)甲斐善光寺を創建した。武田氏滅亡後善光寺如来は、織田・徳川・豊臣を転々としたが慶長三年(1598)信濃善光寺に帰座した。甲斐善光寺では本尊を建久六年(1195)僧定尊造の善光寺如来の前立像であった銅造阿弥陀三尊像を本尊として定めた。昨年7年おきの開帳があった。宝物館には木造の頼朝坐像、木造実朝坐像が収蔵されている。
5、東光寺
保安二年(1121)源義光が建立し、寺号を興国院とした。荒廃していた寺院を弘長二年(1262)に甲州に配流されていた蘭渓道隆が禅宗寺院として建立し東光寺に改めた。武田晴信の庇護を受けて再興法蓋山東光興国禅寺に改めた。諏訪領主の諏訪頼重が幽閉され自害した寺と伝わる。また、謀反の疑いをかけられた武田義信が幽閉され永禄十年に死去した。裏山墓地には頼重や義信の墓所がある。江戸時代には、徳川氏により寺領、山林の安堵を受けた。仏殿は入母屋造檜皮葺屋根の様式を残す室町時代後期の禅宗様仏殿である。
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「甲斐で鎌倉にであう」

お会いしたかった、頼朝の木像と実朝の木像。できれば、会いたくなかった政子の木像。元の密偵の疑いをかけられ甲斐に配流された蘭渓道隆。二階堂道蘊に招かれ恵林寺を開き、国名勝の庭園を作庭した夢窓礎石。鎌倉の永福寺を思い出す二階堂貞藤(道蘊)。安田義資に罠をかけた梶原景時にお会いできました。
それぞれの寺院では、ボランティアガイドの方達のご案内により、何気に見ていた風景が歴史の中の一ページへといざなわれました。戦をしながら仏像を大切にした武田信玄、快川和尚の覚悟の美、珍しい「天弓愛染(愛染明王像)」に放光(お寺の名称)を重ね、一つの石像の六地蔵、忘れてはならないワインの味等。楽しい有意義な甲斐路研修となりました。研修会をセッティングして頂いた企画の方達有難うございました。(森川節子記録)


2017.08.19


鎌倉ガイドは史跡めぐりの下見で清掃ボランテイアをしています。
7月19日鎌倉花火大会にも次のガイド10名が清掃ボランテイアに参加しました。
鷺さん、小杉さん、福島さん、山村さん、後藤さん、坂本さん、高橋聰さん、島田さん、北嶋さん、林さん


2017.08.18


 毎月中旬頃木曜日午前11時20分頃から「鎌倉シーサイドステーション」番組で、当月の史跡めぐりABCの見どころやハイキング中の注意点などを、楽しく分かりやすく紹介しています。
 アナウンサーとの当意即妙なやり取りや、鎌倉の歴史の「うんちく」が聴けますヨ。
鎌倉の季節のうつろいや、お祭り、花々など、鎌倉ガイドの千葉さんならでの語りです。
是非、鎌倉FMも楽しんでみてください。


2017.08.08

8月特別企画Cコース(鎌倉における三浦一族の合戦の跡を歩く)につきましては、多数のお申込みを頂きまして、誠にありがとうございます。 (本コースは終了しました)
 特に、初日の21日(月)につきましては、申込者が非常に多数にのぼるため、今後、新規にお申し込みをご検討いただいているお客様には、ぜひ後の23日(水)の方にお申込み下さいますよう、伏してお願い申し上げます。
 また、既に21日にお申込み頂いているお客さまの中で、23日(水)に振り替えても良いとお考えの場合は、当日の受付時に振替の旨を口頭でお申し出頂ければ、当日受付を致しますので、よろしくお願い致します。取り急ぎお願いまで。


2017.08.05

祇園山ハイキングコース。東勝寺跡、腹切りやぐらから大町八雲神社に至る約30分程の山道。尾根道ではシソ科のアキノタムラソウが可憐な花をつけ、ヤブミョウガの白い花が夏の濃い緑に映えています。見晴台からは由比ヶ浜が望めます。(アキノタムラソウとヤブショウガの写真掲載)
鎌倉市観光商工課‏ @kamakura_kankou  ⇒ 検索
蝉時雨の祇園山に涼を求めて(8月史跡めぐりBコース)-鎌倉幕府跡を訪ね、見晴台から鎌倉を一望ー は、大手新聞メデイアにも紹介される予定です。乞うご期待!!


2017.08.05


 平成29年7月9日(土)「救命入門コース」の講習会が開催されました。講師は鎌倉市鎌倉消防本部高橋様、山本様、佐々木様、斎藤様です。受講対象者はガイド協会9期生10期生のガイド。講習は2時間47名が2回に分け受講しました。
1、応急手当について
 お配りした、救急蘇生の手順をバインダーにはさみガイドをして頂きたい。救急車が到着するのは平均で7分かかり、道路状況や119番通報が重なると当然遅れます。バイスタンダーが救急車到着の間何をするのかを今日は学んでいただきたい。100%命を救う事は出来ないが、社会復帰が可能なようにお手伝いが出来たら良いと思います。呼吸が止まると15秒で意識を失い、3分で脳が失われ始まる。救急車が到着するまでの間バイスタンダーの対応により脳を救うことになります。
 まず、救急車を呼ぶ、場所を聞かれたら落ち着いて鎌倉市内と伝え、目標を伝える。目標が分からない場合、電柱や支柱の番号で答え、傷病者の年齢、性別、どのような状況かを伝える。
1 熱中症 
 この所の暑さは経験したことのない暑さなので無理はしないように、特に高温多湿の日は注意をする。熱中症にならない予防としては病気にならない体をつくる。水は血液が薄まるので、ミネラル(麦茶・OS1)を含む水を持参し、のどが渇かなくても補水を心がける。意識がある場合は体を休ませる。腋の下や大腿部を冷やす。汗が無くなると意識も無くなる。
2 心筋梗塞・脳卒中・脳梗塞・くも膜下出血
 心筋梗塞は冷や汗が出て胸が重苦しくなる。放散痛により齒、首、腹が痛くなる人もいる。又高齢者や糖尿病の人には痛みのない場合もある。2時間以内に病院へ行くことが命を救うのに重要です。脳卒中は気持ちが悪くなったり、マヒが出たりする。くも膜下出血では後頭部に激痛が走る、1回目の出血では助かっても2回目では亡くなる人が多い、特に女性に発症が多い。
3 怪我人
 体液や血液は感染の恐れがあるので直接手を触れないでゴム手袋を着用する。骨折には三角巾を使用し吊る長さを調節する。指先は見えるように本結びで結ぶと楽にほどけます。副木には傘、雑誌を利用する。搬送にはおんぶがベターであるが自分より体重の重い人はおぶわない。毛布があれば手巻きずしの要領で人に巻き付け頭の方から引いて運ぶ。蜂に刺された場合はアレルギー反応があるので注意し蜂の毒は口では吸わないように、ポイズンリムーバを使用する。ショック状況は冷や汗が出る、呼吸が荒くなるので119番通報する。蜂に刺されないようにするには、長袖を着用し黒い服は着用しない。帽子をかぶる。
2、心肺蘇生法の実技指導
1  傷病者の発生
2  安全の確認 周囲が安全かを確認する。
3  反応があるか確認 近づいて肩を叩きながら声をかける。1回目は小さく次第に大きな声で3回くらい行う 
4  反応のない場合は大声で応援を呼ぶ。119番通報とAEDの依頼をする。
5  呼吸の確認をする 胸部・腹部に動があるか見ながら10を数える。 
6  呼吸が無い場合は心肺蘇生法に移る 胸骨圧迫の開始(場所は左右の乳首の真ん中)(形は両手を重ね、手のひらを下に) 強く押す(成人は5㎝くらい沈むよう)一分間に100回から120回くらいのスピードで絶え間なく30回行う。
7 蘇生が無い場合は人工呼吸を2回行う 傷病者の鼻をつまみ、顎を上げ気道を確保し行う
8 心肺蘇生法と人工呼吸を繰り返す
9 AEDが届いたらAEDを装着する 傷病者が他から見えないように周囲を囲んでもらう。
装着している間、他の人に心肺蘇生法を続けてもらう。
装着はAEDの指示に従う。
傷病者の胸が濡れていないか確認し、肌に直接電極パットを1枚は右鎖骨の下へ1枚は左腋の下から5㎝から8㎝の所に密着させる。張り薬の上や心臓ペースメーカや除細動器の上には付けない。
10 電気ショックが必要な場合は人が傷病者から離れたことを確認しスイッチを押す
11 さらに救急車が到着するまで、傷病者が蘇生するまで心肺蘇生法を続ける。
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気温が30度を超すと救急車の出動が増加するそうです。そのようなお忙しい中を「救命入門コース」の指導をして頂き有難うございました。現役の頃、普通救命士の講習を受けましたが、当時はAEDがなかったので、今回の講習でガイド中の事故に、より良い対応が可能になりました。有意義な講習を有難うございました。(森川)
(なお、別途原田理事が鎌倉消防署より「救命講習テキスト」を入手されましたので、さらに上級のコースを受講される場合などの際には、ぜひ参考にして下さい。)


2017.08.01

鎌倉ガイド協会twitter ⇒ 検索

https://twitter.com/sfXNu9gpuIpY0x1

旬の鎌倉をガイドが自慢の写真にコメントを付けて発信しています。
ぜひ、ご覧ください。
鎌倉ガイド協会
@sfXNu9gpuIpY0x1


2017.07.20

 7月19日鎌倉花火大会に清掃ボランテイアとして、当協会員10名が参加して協力しました。


2017.07.11


〇日時 平成29年7月8日(土)
(午前の部10:00~12:00/午後の部13:00~15:00)
〇場所 鎌倉消防署3F
〇受講したガイド 約50名
〇主な内容:
・119番通報の際、連絡事項は「市名(携帯電話からの通報では、通報地点を管轄しな
 い消防本部につながる場合がある為)と場所」及び「患者の状態」
・救急車が到着するまでの平均所要時間は7分。倒れた人の呼吸が止まって3、4分後に
 は組織がダメージを受けることから救急蘇生が必要
・心筋梗塞と脳卒中(脳出血・脳梗塞・くも膜下出血)の各々の症状の特徴を学習
・AEDを使用する心肺蘇生法の実技演習
・腕等を骨折した場合の三角巾の取り扱い(患部を固定、雑誌等でそえぎも)
・患者の運搬方法 (毛布等の利用)
・ハチ等の毒虫対策(ポイズンリムーバー)
・熱中症の処置法(意識があるなら、水分・塩分の補給、涼しい場所への移動。首のまわり、
 脇の下等の冷却)

3グループに分かれての実技研修は30回の胸骨圧迫+2回の人工呼吸を数度繰り返すもので、汗だくになりましたが、講習後には、無事全員に、ラミネートに入った「救命入門コース参加証」が配布されました。


2017.07.03



平成29年6月10日(土) 定例研修会が開催されました。
今回のテーマは『「鎌倉の仏像の特徴と土紋装飾」と題して』
講師は鎌倉ガイド協会 飯田安正さんです。
1、仏像の見方と観賞の秘訣
仏像には部位ごとに仏様の教えがある。その教えには大勢の人の声を聞くことのできる長い耳、知恵が豊かである肉髻や螺髪、慈悲の光を放つ白毫、無垢を表す反った爪、命あるものを残らず救う水かき膜、仏が放つエネルギーが表現される衣文、仏から発する光を表す光背がある。
2、木造仏像の構造
仏像は木、鉄、銅等で造られているが99%木造である。木材と造作は鎌倉時代より以前、頭及び身体幹部の根幹を一木で造る一木造りが中心であった。寿福寺の地蔵菩薩は170㎝あるが頭から台座まで一木で造られている。また、一木割矧造といって一木を割り離し内刳を施し再び組み合わせる技法がある。これは重量の軽減と干割れを防ぐ効果がある。現在は大きな仏像が造ることが出来る、像の体の中心部分を複数の木材から作り出す寄木造が多い。
円覚寺の宝冠釈迦如来像や長谷寺の阿弥陀如来像のように首から上を別材で造り差し込んだ差し首という技法もある。眼の表現としては古くは彫眼であったが鎌倉時代になると水晶を用いた玉眼となった。表面仕上げには、漆を摺りその上に漆で金箔を貼る漆箔がある。また平安時代には金箔がされたが、鎌倉時代には、より人間の皮膚に近づく金泥がされるようになった、截金、土紋、置き上げ胡粉があり、これらを組み合わせて作成された。
3、鎌倉地方(東国)の仏像の歴史
平安時代に京では院派や円派の仏師がおり、朝廷や藤原氏の影響が大きかった。東国は仏像として未熟で「京からは認められていなかった。東国の特徴ある仏像としては鑿の跡が残る鉈彫りの弘明寺の十一面観音像がある。
鎌倉時代前期には京都の仏師により、東国で仏像が制作されており、光明寺の阿弥陀如来像は京都の仏師が造立した。また、奈良で仏像の修復を行っていた慶派の仏師を鎌倉武士が起用した。
鎌倉後期から南北朝時代になると鎌倉地方文化が確立した時代といえる。東国武士が中央と違う革新的文化を創出し、仏像も慶派と宗風が融合した仏像が鎌倉仏師により造られた。代表的な仏像が鎌倉大仏であり、宗風な特徴を持っている。
室町時代には鎌倉公方の衰退により鎌倉文化は退化し、芸術性の高い仏像は少ない。
4、鎌倉の仏像の特徴
慶派の仏師は奈良で仏像の修理を主に行っており、奈良東大寺の諸像修復に尽くした慶派仏師を東国に招いた。慶派仏師は宗風彫刻と融合した鎌倉地方の新様式を確立した。特徴として①法衣垂下像 法衣は着衣の裾が長く垂れている。垂下像は西御門にある来迎寺の地蔵菩薩像や寿福寺の栄西像がある。②半跏像 片手を地面につけ片足を下げている。半跏像は東慶寺の水月観音や非公開であるが禅居院の聖観音がある。③肖像彫刻 禅僧の肖像彫刻を頂相彫刻と呼び、円覚寺の仏光国師像や建長寺の大覚禅師像がある。武人の肖像彫刻は鎌倉地方の特色で俗体像の伝頼朝像や建長寺の北条時頼像があり両像は大変似ている。また法体像では浄光明寺に北条長時像がある。④土紋装飾 土を型抜きし仏像に貼付したもの。⑤裸形像 身体のみ彫造し、その上に衣を着せたもので鎌倉とその周辺で流行した。
鎌倉には運慶造の真作はないと思われる。運慶造は願成就院に阿弥陀如来像ほか、浄楽寺に阿弥陀三尊像ほか、東大寺の金剛力士像、興福寺の弥勒仏坐像ほか、20年前に発見された称名寺光明院の大威徳明王がある。
5、土紋装飾について
宋から渡来した禅僧や宋から帰朝した僧や工人が宗風の塑像彫刻をもたらした。宗風の特徴は眉・鼻・口がとんがっていることで、北条久時が宗風の癖をそのまま受け入れられず独特の手法「土紋装飾」を考え出した。土紋装飾とは宋の技術と慶派仏師の技術により独自の手法を開発したものである。土紋装飾に使われる土は細砂に地の粉をベースに胡粉や粘土及び顔料を混ぜて作り、造形の技法は大型の模様では型抜きした文様をそのまま貼付する。中型では貼付後箆で調整する。小型では土を貼付し箆で模様を作る。土紋は柔らかいためその上に金泥を塗って固めた。
文様は植物文(唐草文・牡丹文・花丸文)法具文(輪宝文・金剛杵文)鳥獣文(鳳凰文)などがある。鎌倉のみ造立されたのは鎌倉武士が中国文化を取り入れ独自の文化を創造する気風から中国風の雰囲気を持ち立体的な「土紋」を考えた。しかし、修復が困難なこと湿気に弱いことで造られた期間は1300年~1400年頃の100年にとどまった。また京都からの見方は仏像に土を貼る事への抵抗・立体感がありすぎること、また足利幕府の京都風への傾注から土紋装飾の仏像は造立されなくなる。
6、土紋装飾のされた仏像は鎌倉には現存する七体と断片二片がある。そのうちの一体は秘仏の宝戒寺歓喜天像である。他にいわき市長福寺に地蔵菩薩坐像がある。
7、土紋装飾の仏像の概要(拝観できる6体)
①浄光明寺 阿弥陀如来坐像 北条久時の発願により1299年頃造立された。像高144.0㎝
上品中生印で宝冠を戴き蓮華座に結跏趺坐、法衣は裙・偏衫・大衣を着用している。桧材。寄木造。玉眼。表面構造は木地、麻布、硬地、漆層、土紋、白色層、金泥、截金と最も丁寧な造作である。
土紋装飾は右肩下に牡丹唐草文、葉文。偏衫には金剛杵、輪宝、菊文。裙には丸文と牡丹唐草。箆などで加工した後はほとんどない。土紋装飾として秀作である。
②東慶寺 聖観音菩薩立像 かつては鎌倉尼五山太平寺の本尊。鎌倉末期から南北朝前期造立された。像高134.5㎝、蓮華を持ち蓮台に立つ。宝髻を結い上げた菩薩で宗風。法衣は浄光明寺と同じ。桧材。寄木造。玉眼。表面構造は木地、麻布地、錆漆、土紋、白色層、金色層、截金。土紋装飾は大衣部に蓮華唐草文、葉文、蔓文。偏衫(右袖内側)に輪宝状半円文。偏衫(右袖外側)に法具状連続文。 型抜きによる形成は大まかで細部の模様は箆で調整している。大衣部全体に唐草文が施され絢爛豪華。
③伝宗庵 地蔵菩薩坐像 鎌倉末期から南北朝期造立。像高68㎝ 蓮華座に結跏趺坐。錫杖と宝珠を持つ。構造は桧材。寄木造。玉眼。表面構造は木地、麻布地、錆漆、土紋、白色層、顔料、金色層。土紋装飾は襟元や袖に梅の花、葉文。 材質は地の粉様の塑形土。砂粒が少し粗い。技法は花文を型抜きして貼付後箆で加工。葉文は手造りの塑形土を貼付し箆で形を整えてある。模様の配置は少し不揃い。
④来迎寺 如意輪観音半跏像 鎌倉末期から南北朝期造立された。像高97.5㎝ 六臂半跏像。持ち物は思惟、宝珠、念珠、垂下、蓮華、輪宝、天衣を纏う。桧材。寄木造。玉眼。当初の宝冠を戴いている。 表面構造は木地、麻布地、錆漆、土紋、白色層、金色層、截金。土紋装飾は裙に大型の輪宝、牡丹唐草。材質は粒の少し粗い細砂混じり塑形土。技法は型抜き後貼付し箆で調整してある。かなり丁寧な造り方で熟練した仏師の作。
⑤浄智寺 韋駄天立像 南北朝から室町前期造立された。像高86.9㎝ 甲冑を着けて沓を履き合掌した腕の上に宝棒をのせている。岩上の荷葉座に立ち輪宝光を背にする。桧材。寄木造。玉眼(茶水晶)表面構造は木地、麻布地、錆漆、土紋、白色層、金色層、後補の白色がその上に塗られている。土紋装飾は甲冑に毘沙門亀甲文、胸部と腹部に花文、葉文、帯と沓の止具にも土紋がある。材質は細砂を混ぜた地の粉様塑形土で色は茶褐色。技法は型抜きしたものを丁寧に貼付し細部を除き箆等で手を加えていない。甲冑以外の土紋は剥落がひどく江戸時代に修復し彩色が施された。
⑥覚園寺 阿弥陀如来坐像 南北朝期から室町中期造立された。もとは廃寺の理智光寺の本尊。像高136.5㎝ 阿弥陀定印を結び、結跏趺坐。光背は二重の円光。桧材。寄木造。玉眼。表面構造は木地、麻布地、錆漆、硬地、土紋、白色(または顔料)金色層。土紋装飾は花文に葉文を組み合わせた牡丹唐草文と輪宝文と推定、剥落がひどく模様の痕跡を残す程度のものが多い。材質は茶褐色の地の粉様の塑形土。技法は型抜きしたものか不明。表面仕上げは丁寧であるが、文様が簡素。土紋に割れ目があり塑形土の造りが不備とも考えられる。
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司会者のご紹介に「飯田ガイドは鎌倉の文化、歴史に造詣が深く、特に仏像や建物に深い方」と紹介がありました。私的なことですが、飯田ガイド主催の「鎌倉探訪有志会」に参加させて頂き、飯田ガイドの知識の深さと暖かい口調に魅かれ、鎌倉にはまりました。本日は仏像の写真をふんだん使用しての講義、有難うございました。


2017.07.02


鎌倉の「祭」と「食」のガイドではPART6に引き続きPART7の会員を
募集します。
 (本件のPART7の会員募集は終了致しました)
鎌倉とその周辺では毎月伝統のある「祭」が神社や寺院で行われています。
「祭」それは神・仏への饗応であり「饗応」の本番は会食といえます。
「祭」を楽しみ、合せて鎌倉と周辺の名店で「会食」を楽しむ参加者を募集します。
ベテランのガイドが祭りの解説をし、ご案内を致します。
[祭]
第1回 法難会(龍口寺)           2017年9月12日(火)
第2回 流鏑馬(鶴岡八幡宮)             10月 1日(日)
第3回 御足参り(長谷寺)              12月18日(月)
第4回 涅槃会(宝戒寺・妙本寺)       2018年2月15日(木)
第5回 歩射(白岩神社・大磯)             3月 4日(日)
第6回 徳崇大権現会(宝戒寺)             5月22日(火)
第7回 天王祭(小動神社)                7月 8日(日)
祭は都合により変更する場合があります。
「食」は各地域の名店を、その都度ご案内します。
会員は「祭」と「食」両方に参加していただきます
[募集定員] PART7:40名  (お申し込み多数の場合は抽選になります)
※条件:全7回中5回以上に出席可能な方
[応募締切] 平成29年8月9日(水)(必着)
[参 加 費] 年会費(通信費他):2,000円  (初回参加時にいただきます)
各 回 参 加 費  :1,000円/回(各回参加時にいただきます)
※会食は実費負担/2,000~3,500円、 ※拝観料・交通費は別に実費負担
[参加お申込み方法]
往復はがきに、①コース(「祭と食」PART)、②住所、③氏名(ふりがな)、④電話番号(固定及び携帯)、⑤FAX番号、⑥メールアドレス(所有の場合)を明記の上、下記住所までお送り下さい。
※一通につき1名様。往復はがき以外の申し込みは無効です。
○当選した方には参加証、案内書(詳細についてはその都度ご案内)をお送りします。
[申込先] 〒248-0014 鎌倉市由比ガ浜4-1-1
NPO法人 鎌倉ガイド協会 「祭・食」PART7係
[問合せ] 9:30~15:30(休日:第2土曜日) TEL:0467-24-6548 FAX:0467-24-6523


2017.06.14

 平成29年7月6日(木曜日)実施の特別企画Cコースは、定員に
達しました。
 つきましては、恐れ入りますが参加者の募集を打ちきらせて頂きます。
なにとぞ、ご了承の程、よろしくお願い致します。
 なお、7月13日(木曜日)実施の同Cコースは、定員に達してお
りません(余裕がございます)ので、なにとぞ13日の方にお申込み
下さいますよう、お願い申し上げます。      以上 


2017.06.10

当協会史跡めぐりで、お客様の持物と思われる、下記のお忘れ物がありました。
お心当たりの方は、当協会(担当:島田・高橋(み))宛に、お忘れになられた
だいたいの時間と場所とを申し添えて、ご連絡下さいますようお願い致します。

1 参加されたコース 6月2日Cコース「佐原の二大菩薩像をお参りに行こう」
2 お忘れ物     長袖・厚手のワイシャツ1枚
(XLサイズ、ベージュ色、腕の辺りに英文字 NO50 3277 前にも 英文字の模様があります
以上


2017.05.29


鎌倉の「祭」と「食」のガイドPART6の会員募集は終了しました。

鎌倉とその周辺では毎月伝統のある「祭」が神社や寺院で行われています。
「祭」それは神・仏への饗応であり「饗応」の本番は会食といえます。
「祭」を楽しみ、合せて鎌倉と周辺の名店で「会食」を楽しむ参加者を募集します。
ベテランのガイドが祭りの解説をし、ご案内を致します。
 (下記の参加者募集は終了致しました。)
[祭]
第1回 面掛行列(御霊神社)          平成29年9月18日(祭)
第2回 お十夜(光明寺)              10月13日(金)
第3回 薬師如来お煤払い(神武寺)         12月13日(水)
第4回 大国祷会成満祭(長勝寺)      平成30年2月11日(日)
第5回 灌仏会・忍性墓公開              4月 8日(日)
第6回 小田原北條五代祭り(小田原)         5月 3日(祭)
第7回 五所神社例祭(五所神社)           6月10日(日)
祭は都合により変更する場合があります。
「食」は各地域の名店を、その都度ご案内します。
会員は「祭」と「食」両方に参加していただきます
[募集定員] PART6:40名 (終了) (お申し込み多数の場合は抽選になります)
条件:全7回中5回以上に出席可能な方
[応募締切] 平成29年7月29日(土)(必着)
[参 加 費] 年会費(通信費他):2,000円  (初回参加時にいただきます)
各 回 参 加 費      :1,000円/回(各回参加時にいただきます)
※会食は実費負担/2,000~3,500円、 ※拝観料・交通費は別に実費負担
[参加お申込み方法]
往復はがきに、①コース(「祭と食」PART6)、②住所、③氏名(ふりがな)、④電話番号(固定及び携帯)、⑤FAX番号、⑥メールアドレス(所有の場合)を明記の上、下記住所までお送り下さい。
一通につき1名様。往復はがき以外の申し込みは無効です。
○当選した方には参加証、案内書(詳細についてはその都度ご案内)をお送りします。
[申込先] 〒248-0014 鎌倉市由比ガ浜4-1-1
NPO法人 鎌倉ガイド協会 「祭・食」PART6係
[問合せ] 9:30~15:30(休日:第2土曜日) TEL:0467-24-6548 FAX:0467-24-6523


2017.05.12


平成29年4月8日(土)定例研修会が開催されました。
今回のテーマは『「-古典へのいざない―上代文学~中世初頭」と題して』
講師は鎌倉ガイド協会 高橋みい子さんです。
1、はじめに
今日の講義を聞いて古典を読みたいという気持ちになられたら嬉しいです。はじめに和歌2首を取り上げてみました。「名にしおはばいざ言問はむ都鳥我が思ふひとはありやなしやと」私は台東区出身で付近には言問橋や業平橋がありました。高校で古文を学び伊勢物語に登場する場所と知り、古典に興味を持ちました。次に頼朝の和歌ですが「陸奥の言はで忍ぶはえぞ知らぬ書き尽してよ壺の碑」この歌は頼朝が1195年3月上洛し、藤原兼実に3回、慈円に1回対面しています。対面の翌日慈円からの歌に返した歌です。頼朝の歌に慈円は驚嘆し、その後鎌倉に帰った後も77首の贈答歌が交わされました。感動させたのです。この時代には歌が必要な教養であり、歌には力がありました。
2、上代の文学
① 口承文学
神話や伝説を語り伝え、歌謡を歌いついできました。語り伝える専門集団がおり、やがて「古事記」「日本書紀」として筆録されます。農耕に大切な春や秋には歌の掛け合いをして楽しむ、歌垣がありそこには男女の結び付きもありました。
② 祝詞・宣命
古代の人々は神を崇め、祭りの儀式を重んじました。言語に神秘的な霊が宿っていると信じ厳粛で美しい表現が工夫されました。それが祝詞です。現存するものは「延喜式」に収められています。。天皇の言葉を宣べる宣命は口承の言葉が、奈良期には宣布される文書となります。
③ 古事記・日本書紀
天皇家は統一国家を形成し、先進中国に学び、律令による中央集権国家を築きます。そのためには天皇の権威を高める必要があり、皇室の神話を中心に出雲系神話を組み込んで「古事記」を記した。特に「ヤマトタケル」は日本人の心を奪う物語です。「古事記」は稗田阿礼が暗誦していたものを、漢字だけを使い太安万侶が筆録した。日本最初の正史「日本書紀」は舎人親王らにより編纂され漢文体で書かれた。
④ 風土記
元明天皇が諸国に命じ地誌として「風土記」を撰進させた。「出雲風土記」「常陸風土記」など五つの風土記が残されている。
⑤万葉集
漢字の使用が日本文学を変え、個性的な文学が生まれた。伝承的な古い歌から奈良末期の個性的な歌まで膨大な歌を収めた「万葉集」にその流れを見ることができる。時代は3世紀に及び。部立は雑歌・相聞・挽歌の三種。歌体は短歌・長歌・旋頭歌など。万葉仮名で表記され。音を漢字で表記した。「ますらをぶり」と呼ばれる素朴・雄大・簡明な歌風です。
1番 「籠もよみ籠持ち・・・・」雄略天皇の歌で女性に名前を聞くことは求婚を意味し、名を名乗ったことは承諾を意味しました。結婚は子孫繁栄で天皇家が盛んになることになります。
8番 額田王の歌「熟田津・・・・」13番 中大兄の歌「香久山は・・・」
20番 額田王「あかねさす・・・」と21番 大海人皇子「紫草の・・・」の歌は相聞歌です。
「いろはにほへとちりぬるを」柿本人麻呂が作ったとも言われています。7字ずつ区切ると「とかなくてしす」となる。持統・文武に仕えた宮廷歌人ですが生死不詳です。「咎無くて死す」が謎を呼びます。手習いのいろは47文字。あの事件後47年目に「仮名手本忠臣蔵」が上演。
803番 山上憶良の歌「銀も金も・・・」憶良は筑紫国師・大伴旅人は大宰府帥として赴任し、太宰府で一緒に宴を行っている。太宰府という田舎にも筑紫歌壇があり、文化があった。
1809番「菟原娘子」や1807番「真間の手児奈」は伝説歌人高橋虫麻呂の歌。二人の男性に愛され最後は入水する。「源氏物語」の浮舟にもこの流れがあります。万葉集巻20最後を飾る歌、4516番「あらたしき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」は大伴家持の歌です。因幡の国司の館で元日の賀宴が開かれていた。その雪を見つめながら、未来のあつい祈りをうたわずにいられなかった。奈良の都を震え上がらせた橘奈良麻呂の変で、家持はこの地にながされていたのです。これより和歌の時代が終わり、唐風文化の時代へと移り、漢詩を重視するようになる。
⑥ 漢詩・漢文
中国に学び律令国家を築こうとした奈良時代は、詩苑が開かれ漢詩・漢文を作ることが流行した。奈良時代中頃、最古の漢詩集「懐風藻」が編まれた。
平安時代初頭には漢詩文の教養は知識人に欠くことのできないものとなった。
3、中古の文学
①  漢詩文の隆盛
都を平安京に移した平安初期は中国の制度・文物が尊ばれ、漢詩文は立身出世の必須科目なり、菅原家・大江家が台頭した。勅撰漢詩集「凌雲新集」「文華秀麗集」「経国集」が相次いで出され、個人の漢詩集として、空海「性霊集」「文鏡秘府論」菅原道真「菅家文集」がある。中国の白楽天「白氏文集」が紹介され、貴族社会で読まれた。その後、遣唐使が廃止され、藤原氏の隆興により漢詩文は衰退した。しかし男子は教養として漢詩文を修め、公的な記録は漢文でなされた。
②  和歌の復興とひらがなの普及
漢字の草体から生み出された、平仮名が日本語を表記する文字として発達した。平仮名により「歌合」が流行し、和歌が貴族にとってなくてはならないものとなった。時代の気運は国風尊重へ移り、在原業平・僧正遍照・小野小町ら六歌仙の活躍する時代を経て、勅撰和歌集「古今和歌集」が完成する。和歌は公の文学として、ひらがなも公の文字として公認された。
③  古今和歌集
醍醐天皇の勅命により紀友則・紀貫之らの撰により905年に成立。。「たをやめぶり」と呼ばれる優雅・繊細で詠嘆性の強い歌風である。紀貫之の作といわれる仮名序は文学史上初の文学論として注目される。貫之は「生きとし生けるものいずれか歌を詠まざりける」と述べている。
その後「後撰和歌集」「拾遺和歌集」「後拾遺和歌集」が編まれた。
④ 私家集と歌論
私家集には和泉式部「和泉式部集」藤原俊成「長秋詠藻」西行「山家集」、歌論には藤原公任「新選髄脳」源俊頼「俊頼髄脳」藤原清輔「袋草紙」などがある。
⑤  物語文学
ひらがなの普及は散文文学にも影響をした。作り物語として「竹取物語」「宇津保物語」「落窪物語」歌物語として「伊勢物語」「大和物語」「平中物語」が書かれた。「物語の祖」と呼ばれる「竹取物語」は「求婚物語」、「羽衣伝説」、「富士山の地名由来説話」等の要素を取り入れている。楽しく読むことが出来ます。伊勢物語は歌物語で歌がありその歌の説明文が物語になりました。32段には「古のしずのおだまきくりかえし昔を今になすよしもがな」がある。、静御前が舞殿で舞った時の歌は「古の」を「しずやしず」と変えており、17・8歳の静御前でしたが、すでに伊勢物語を読んでいる白拍子は教養人であった。
⑥  日記文学
「土佐日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」「讃岐の典侍日記」女流日記は自己の内面の真実を書き記していて「自照の文学」とも呼ぶ。「土佐日記」は12月20日午後8時に門出をして、土佐から京へ55日の旅、歌は57首収められている。
⑦  随筆文学
清少納言作の「枕草子」は日常の断面を鋭い感覚で鮮やかに切り取り、簡潔な文章で書きとめた随筆です。日記的章段・類聚的章段・随想的章段の300段。中宮定子に仕え、定子の美貌・知性が讃えられ、定子一門の華やかさを描き「をかし」の文学とされる。出仕当時は定子18歳清少納言28歳でした。
⑧  女流文学と源氏物語
藤原氏による摂関家政治が全盛期を迎え、文学では王朝女流文学が開花する。中宮彰子に仕えた紫式部が宮廷社会の人間模様を写実的に描いた「源氏物語」は「もののあはれ」が根底に流れている。何時の時代にも最高の古典と言われ、世界文学史の中の傑作として海外でも高い評価を得ている。
「源氏物語」は40か国以上で翻訳され、日本でも現代語訳が数多く出版されているが、谷崎潤一郎の訳が原文に近い。私たちが読める本は写本です。藤原定家の青表紙本が主流であり、鎌倉ゆかりでは源光行・親行親子が写本河内本を残しています。源氏物語は「いづれの御時にか・・・」の「桐壺」で始まり「夢浮橋」まで54巻にわたる。妃の方々は「女御・更衣」と父親の位で名称も決まります。
⑨  歴史物語
物語文学が衰退すると、歴史と物語を融合させた「歴史物語」が生まれた。藤原道長一門を賛美する「栄華物語」同一題材を扱っているが激しく批判した「大鏡」「今鏡」が書かれた。
⑩  説話文学
平安初期に説話集として僧景戒による仏教説話集「日本霊異記」があり、平安後期には漢字にカタカナを交えた文体で世俗説話「江談抄」「古本説話集」が編まれた。説話では「今昔物語集」が説話史上最高の地位を占めた。
⑪  歌謡
上代からの神楽・催馬楽がうたわれ、後期には今様が流行した。後白河院が集成した「梁塵秘抄」がある。
4、中世初頭の文学
中世は源平合戦に始まり、貴族は没落し武士階級が台頭した。文学も貴族層から武家さらに庶民へと広がり、戦乱により地方文化・庶民文化が向上する。
①  軍記物語
戦乱により、英雄物語が記録され、「軍記物語」が生まれた。「保元物語」は源為朝の活躍が書かれている。「平治物語」は平家一門の20年間の栄枯盛衰の物語で軍記物語中最高の傑作である。琵琶法師が語り伝え、読み物として愛好された。無常観・躍動感がある。巻7には「忠度の都落ち」灌頂巻には「大原御幸」が収められている。14世紀後半には「太平記」「義経記」「曽我物語」などが書かれた。
②  穏者物語
世俗を厭って世捨て人になった隠者たちの文学作品、鴨長明の「方丈記」兼好法師の「徒然草」がある。鴨長明は下鴨神社の神官で歌の指導者でもあった。鎌倉に下向し実朝に会っている。吉田兼好は「徒然草」で人生観や自然観を描いた。一方王朝生活にあこがれていた。40歳になったら死んだ方が良いと書いているが60歳まで生き、244段執筆した。大変読みやすいのでぜひ読んでください。
③  新古今和歌集と和歌の新風
新しい歌壇のリーダーが後鳥羽院であり、「新古今和歌集」は院の勅撰和歌集。選者は藤原定家・藤原家隆ら6人。「新古今風」と呼ばれる優美・繊細な象徴美を完成された。後鳥羽院の歌は「ほのぼのと春こそ空に木にけらし天の香久山霞たなびく」がある。この時代政治は鎌倉中心。京都では歌会を行い、昔を思い、文化を守ることが使命と思っていた。藤原定家の歌は「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるるよこ雲の空」。
鎌倉期には、源実朝の「金槐和歌集」、「建礼門院右京大夫集」がある。実朝は鎌倉生まれの鎌倉育ち、定家に師事した。新古今和歌集に頼朝の歌が選ばれたことを知り、実朝は大変喜んだ。その後和歌は急速に新鮮味を失っていった。
④  歌論
歌風の編纂をまとめた藤原俊成の「古来風体抄」藤原定家の「近代秀歌」「毎月抄」鴨長明の「無名抄」正徹の「正徹物語」などがある。
5、まとめ
「磯城島の大和の国は言霊の幸はふ国ぞま幸くありこそ」(人麻呂)「うた」の始まりは、人々の感情の高まりが短い叫びやかけ声となり、ことばとして発せられ、次第に「うた」となっていった。「うた」のこころは日本精神の伝承として、今も日本独自の文化として世界の人々にも愛されています。
私のお薦めは読みやすいので「文車日記」-私の古典散歩―田辺聖子作です。
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司会者の方の紹介のように文学に精通し専門的知識の豊富な講義でした。その上、流れるような口調に物語の場面が浮かび、古典入門が出来そうです。ガイドをなさっておられる時にも言葉を大切にお話していることと思いました。本日は有難うございました。


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