トピックス

2017.06.14

 平成29年7月6日(木曜日)実施の特別企画Cコースは、定員に
達しました。
 つきましては、恐れ入りますが参加者の募集を打ちきらせて頂きます。
なにとぞ、ご了承の程、よろしくお願い致します。
 なお、7月13日(木曜日)実施の同Cコースは、定員に達してお
りません(余裕がございます)ので、なにとぞ13日の方にお申込み
下さいますよう、お願い申し上げます。      以上 


2017.06.10

当協会史跡めぐりで、お客様の持物と思われる、下記のお忘れ物がありました。
お心当たりの方は、当協会(担当:島田・高橋(み))宛に、お忘れになられた
だいたいの時間と場所とを申し添えて、ご連絡下さいますようお願い致します。

1 参加されたコース 6月2日Cコース「佐原の二大菩薩像をお参りに行こう」
2 お忘れ物     長袖・厚手のワイシャツ1枚
(XLサイズ、ベージュ色、腕の辺りに英文字 NO50 3277 前にも 英文字の模様があります
以上


2017.05.29


鎌倉の「祭」と「食」のガイドではPART6の会員を募集します。

鎌倉とその周辺では毎月伝統のある「祭」が神社や寺院で行われています。
「祭」それは神・仏への饗応であり「饗応」の本番は会食といえます。
「祭」を楽しみ、合せて鎌倉と周辺の名店で「会食」を楽しむ参加者を募集します。
ベテランのガイドが祭りの解説をし、ご案内を致します。
[祭]
第1回 面掛行列(御霊神社)          平成29年9月18日(祭)
第2回 お十夜(光明寺)              10月13日(金)
第3回 薬師如来お煤払い(神武寺)         12月13日(水)
第4回 大国祷会成満祭(長勝寺)      平成30年2月11日(日)
第5回 灌仏会・忍性墓公開              4月 8日(日)
第6回 小田原北條五代祭り(小田原)         5月 3日(祭)
第7回 五所神社例祭(五所神社)           6月10日(日)
祭は都合により変更する場合があります。
「食」は各地域の名店を、その都度ご案内します。
会員は「祭」と「食」両方に参加していただきます
[募集定員] PART6:40名 (お申し込み多数の場合は抽選になります)
条件:全7回中5回以上に出席可能な方
[応募締切] 平成29年7月29日(土)(必着)
[参 加 費] 年会費(通信費他):2,000円  (初回参加時にいただきます)
各 回 参 加 費      :1,000円/回(各回参加時にいただきます)
※会食は実費負担/2,000~3,500円、 ※拝観料・交通費は別に実費負担
[参加お申込み方法]
往復はがきに、①コース(「祭と食」PART6)、②住所、③氏名(ふりがな)、④電話番号(固定及び携帯)、⑤FAX番号、⑥メールアドレス(所有の場合)を明記の上、下記住所までお送り下さい。
一通につき1名様。往復はがき以外の申し込みは無効です。
○当選した方には参加証、案内書(詳細についてはその都度ご案内)をお送りします。
[申込先] 〒248-0014 鎌倉市由比ガ浜4-1-1
NPO法人 鎌倉ガイド協会 「祭・食」PART6係
[問合せ] 9:30~15:30(休日:第2土曜日) TEL:0467-24-6548 FAX:0467-24-6523


2017.05.12


平成29年4月8日(土)定例研修会が開催されました。
今回のテーマは『「-古典へのいざない―上代文学~中世初頭」と題して』
講師は鎌倉ガイド協会 高橋みい子さんです。
1、はじめに
今日の講義を聞いて古典を読みたいという気持ちになられたら嬉しいです。はじめに和歌2首を取り上げてみました。「名にしおはばいざ言問はむ都鳥我が思ふひとはありやなしやと」私は台東区出身で付近には言問橋や業平橋がありました。高校で古文を学び伊勢物語に登場する場所と知り、古典に興味を持ちました。次に頼朝の和歌ですが「陸奥の言はで忍ぶはえぞ知らぬ書き尽してよ壺の碑」この歌は頼朝が1195年3月上洛し、藤原兼実に3回、慈円に1回対面しています。対面の翌日慈円からの歌に返した歌です。頼朝の歌に慈円は驚嘆し、その後鎌倉に帰った後も77首の贈答歌が交わされました。感動させたのです。この時代には歌が必要な教養であり、歌には力がありました。
2、上代の文学
① 口承文学
神話や伝説を語り伝え、歌謡を歌いついできました。語り伝える専門集団がおり、やがて「古事記」「日本書紀」として筆録されます。農耕に大切な春や秋には歌の掛け合いをして楽しむ、歌垣がありそこには男女の結び付きもありました。
② 祝詞・宣命
古代の人々は神を崇め、祭りの儀式を重んじました。言語に神秘的な霊が宿っていると信じ厳粛で美しい表現が工夫されました。それが祝詞です。現存するものは「延喜式」に収められています。。天皇の言葉を宣べる宣命は口承の言葉が、奈良期には宣布される文書となります。
③ 古事記・日本書紀
天皇家は統一国家を形成し、先進中国に学び、律令による中央集権国家を築きます。そのためには天皇の権威を高める必要があり、皇室の神話を中心に出雲系神話を組み込んで「古事記」を記した。特に「ヤマトタケル」は日本人の心を奪う物語です。「古事記」は稗田阿礼が暗誦していたものを、漢字だけを使い太安万侶が筆録した。日本最初の正史「日本書紀」は舎人親王らにより編纂され漢文体で書かれた。
④ 風土記
元明天皇が諸国に命じ地誌として「風土記」を撰進させた。「出雲風土記」「常陸風土記」など五つの風土記が残されている。
⑤万葉集
漢字の使用が日本文学を変え、個性的な文学が生まれた。伝承的な古い歌から奈良末期の個性的な歌まで膨大な歌を収めた「万葉集」にその流れを見ることができる。時代は3世紀に及び。部立は雑歌・相聞・挽歌の三種。歌体は短歌・長歌・旋頭歌など。万葉仮名で表記され。音を漢字で表記した。「ますらをぶり」と呼ばれる素朴・雄大・簡明な歌風です。
1番 「籠もよみ籠持ち・・・・」雄略天皇の歌で女性に名前を聞くことは求婚を意味し、名を名乗ったことは承諾を意味しました。結婚は子孫繁栄で天皇家が盛んになることになります。
8番 額田王の歌「熟田津・・・・」13番 中大兄の歌「香久山は・・・」
20番 額田王「あかねさす・・・」と21番 大海人皇子「紫草の・・・」の歌は相聞歌です。
「いろはにほへとちりぬるを」柿本人麻呂が作ったとも言われています。7字ずつ区切ると「とかなくてしす」となる。持統・文武に仕えた宮廷歌人ですが生死不詳です。「咎無くて死す」が謎を呼びます。手習いのいろは47文字。あの事件後47年目に「仮名手本忠臣蔵」が上演。
803番 山上憶良の歌「銀も金も・・・」憶良は筑紫国師・大伴旅人は大宰府帥として赴任し、太宰府で一緒に宴を行っている。太宰府という田舎にも筑紫歌壇があり、文化があった。
1809番「菟原娘子」や1807番「真間の手児奈」は伝説歌人高橋虫麻呂の歌。二人の男性に愛され最後は入水する。「源氏物語」の浮舟にもこの流れがあります。万葉集巻20最後を飾る歌、4516番「あらたしき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」は大伴家持の歌です。因幡の国司の館で元日の賀宴が開かれていた。その雪を見つめながら、未来のあつい祈りをうたわずにいられなかった。奈良の都を震え上がらせた橘奈良麻呂の変で、家持はこの地にながされていたのです。これより和歌の時代が終わり、唐風文化の時代へと移り、漢詩を重視するようになる。
⑥ 漢詩・漢文
中国に学び律令国家を築こうとした奈良時代は、詩苑が開かれ漢詩・漢文を作ることが流行した。奈良時代中頃、最古の漢詩集「懐風藻」が編まれた。
平安時代初頭には漢詩文の教養は知識人に欠くことのできないものとなった。
3、中古の文学
①  漢詩文の隆盛
都を平安京に移した平安初期は中国の制度・文物が尊ばれ、漢詩文は立身出世の必須科目なり、菅原家・大江家が台頭した。勅撰漢詩集「凌雲新集」「文華秀麗集」「経国集」が相次いで出され、個人の漢詩集として、空海「性霊集」「文鏡秘府論」菅原道真「菅家文集」がある。中国の白楽天「白氏文集」が紹介され、貴族社会で読まれた。その後、遣唐使が廃止され、藤原氏の隆興により漢詩文は衰退した。しかし男子は教養として漢詩文を修め、公的な記録は漢文でなされた。
②  和歌の復興とひらがなの普及
漢字の草体から生み出された、平仮名が日本語を表記する文字として発達した。平仮名により「歌合」が流行し、和歌が貴族にとってなくてはならないものとなった。時代の気運は国風尊重へ移り、在原業平・僧正遍照・小野小町ら六歌仙の活躍する時代を経て、勅撰和歌集「古今和歌集」が完成する。和歌は公の文学として、ひらがなも公の文字として公認された。
③  古今和歌集
醍醐天皇の勅命により紀友則・紀貫之らの撰により905年に成立。。「たをやめぶり」と呼ばれる優雅・繊細で詠嘆性の強い歌風である。紀貫之の作といわれる仮名序は文学史上初の文学論として注目される。貫之は「生きとし生けるものいずれか歌を詠まざりける」と述べている。
その後「後撰和歌集」「拾遺和歌集」「後拾遺和歌集」が編まれた。
④ 私家集と歌論
私家集には和泉式部「和泉式部集」藤原俊成「長秋詠藻」西行「山家集」、歌論には藤原公任「新選髄脳」源俊頼「俊頼髄脳」藤原清輔「袋草紙」などがある。
⑤  物語文学
ひらがなの普及は散文文学にも影響をした。作り物語として「竹取物語」「宇津保物語」「落窪物語」歌物語として「伊勢物語」「大和物語」「平中物語」が書かれた。「物語の祖」と呼ばれる「竹取物語」は「求婚物語」、「羽衣伝説」、「富士山の地名由来説話」等の要素を取り入れている。楽しく読むことが出来ます。伊勢物語は歌物語で歌がありその歌の説明文が物語になりました。32段には「古のしずのおだまきくりかえし昔を今になすよしもがな」がある。、静御前が舞殿で舞った時の歌は「古の」を「しずやしず」と変えており、17・8歳の静御前でしたが、すでに伊勢物語を読んでいる白拍子は教養人であった。
⑥  日記文学
「土佐日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」「讃岐の典侍日記」女流日記は自己の内面の真実を書き記していて「自照の文学」とも呼ぶ。「土佐日記」は12月20日午後8時に門出をして、土佐から京へ55日の旅、歌は57首収められている。
⑦  随筆文学
清少納言作の「枕草子」は日常の断面を鋭い感覚で鮮やかに切り取り、簡潔な文章で書きとめた随筆です。日記的章段・類聚的章段・随想的章段の300段。中宮定子に仕え、定子の美貌・知性が讃えられ、定子一門の華やかさを描き「をかし」の文学とされる。出仕当時は定子18歳清少納言28歳でした。
⑧  女流文学と源氏物語
藤原氏による摂関家政治が全盛期を迎え、文学では王朝女流文学が開花する。中宮彰子に仕えた紫式部が宮廷社会の人間模様を写実的に描いた「源氏物語」は「もののあはれ」が根底に流れている。何時の時代にも最高の古典と言われ、世界文学史の中の傑作として海外でも高い評価を得ている。
「源氏物語」は40か国以上で翻訳され、日本でも現代語訳が数多く出版されているが、谷崎潤一郎の訳が原文に近い。私たちが読める本は写本です。藤原定家の青表紙本が主流であり、鎌倉ゆかりでは源光行・親行親子が写本河内本を残しています。源氏物語は「いづれの御時にか・・・」の「桐壺」で始まり「夢浮橋」まで54巻にわたる。妃の方々は「女御・更衣」と父親の位で名称も決まります。
⑨  歴史物語
物語文学が衰退すると、歴史と物語を融合させた「歴史物語」が生まれた。藤原道長一門を賛美する「栄華物語」同一題材を扱っているが激しく批判した「大鏡」「今鏡」が書かれた。
⑩  説話文学
平安初期に説話集として僧景戒による仏教説話集「日本霊異記」があり、平安後期には漢字にカタカナを交えた文体で世俗説話「江談抄」「古本説話集」が編まれた。説話では「今昔物語集」が説話史上最高の地位を占めた。
⑪  歌謡
上代からの神楽・催馬楽がうたわれ、後期には今様が流行した。後白河院が集成した「梁塵秘抄」がある。
4、中世初頭の文学
中世は源平合戦に始まり、貴族は没落し武士階級が台頭した。文学も貴族層から武家さらに庶民へと広がり、戦乱により地方文化・庶民文化が向上する。
①  軍記物語
戦乱により、英雄物語が記録され、「軍記物語」が生まれた。「保元物語」は源為朝の活躍が書かれている。「平治物語」は平家一門の20年間の栄枯盛衰の物語で軍記物語中最高の傑作である。琵琶法師が語り伝え、読み物として愛好された。無常観・躍動感がある。巻7には「忠度の都落ち」灌頂巻には「大原御幸」が収められている。14世紀後半には「太平記」「義経記」「曽我物語」などが書かれた。
②  穏者物語
世俗を厭って世捨て人になった隠者たちの文学作品、鴨長明の「方丈記」兼好法師の「徒然草」がある。鴨長明は下鴨神社の神官で歌の指導者でもあった。鎌倉に下向し実朝に会っている。吉田兼好は「徒然草」で人生観や自然観を描いた。一方王朝生活にあこがれていた。40歳になったら死んだ方が良いと書いているが60歳まで生き、244段執筆した。大変読みやすいのでぜひ読んでください。
③  新古今和歌集と和歌の新風
新しい歌壇のリーダーが後鳥羽院であり、「新古今和歌集」は院の勅撰和歌集。選者は藤原定家・藤原家隆ら6人。「新古今風」と呼ばれる優美・繊細な象徴美を完成された。後鳥羽院の歌は「ほのぼのと春こそ空に木にけらし天の香久山霞たなびく」がある。この時代政治は鎌倉中心。京都では歌会を行い、昔を思い、文化を守ることが使命と思っていた。藤原定家の歌は「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるるよこ雲の空」。
鎌倉期には、源実朝の「金槐和歌集」、「建礼門院右京大夫集」がある。実朝は鎌倉生まれの鎌倉育ち、定家に師事した。新古今和歌集に頼朝の歌が選ばれたことを知り、実朝は大変喜んだ。その後和歌は急速に新鮮味を失っていった。
④  歌論
歌風の編纂をまとめた藤原俊成の「古来風体抄」藤原定家の「近代秀歌」「毎月抄」鴨長明の「無名抄」正徹の「正徹物語」などがある。
5、まとめ
「磯城島の大和の国は言霊の幸はふ国ぞま幸くありこそ」(人麻呂)「うた」の始まりは、人々の感情の高まりが短い叫びやかけ声となり、ことばとして発せられ、次第に「うた」となっていった。「うた」のこころは日本精神の伝承として、今も日本独自の文化として世界の人々にも愛されています。
私のお薦めは読みやすいので「文車日記」-私の古典散歩―田辺聖子作です。
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司会者の方の紹介のように文学に精通し専門的知識の豊富な講義でした。その上、流れるような口調に物語の場面が浮かび、古典入門が出来そうです。ガイドをなさっておられる時にも言葉を大切にお話していることと思いました。本日は有難うございました。


2017.04.12

『鎌倉ガイド協会 創立25周年記念』ポイントカードのご利用期間は4月10日をもちまして終了しました。有り難うございました。


2017.03.26


「歴史を訪ねる旅」の皆様をご案内しました。
平成29年2月25日(土)、『NPO法人新現役ネットの会』の趣味・芸術分野の自主活動グループ『歴史を訪ねる旅』の皆様を曽我兄弟ゆかりの小田原市の梅香る曽我の里にご案内しました。
テーマは-曽我の里に、梅林と曽我兄弟ゆかりの社寺を歩く-
コースはJR国府津駅~菅原神社~寳金剛寺(本堂・収蔵庫拝観)~一徳寺~法蓮寺~満江御前の墓~別所梅林~(昼食)~原梅林~城前寺~法輪寺~宗我神社~JR下曽我駅で解散。徒歩距離は約6.5km。
メインテーマは35,000本を誇る曽我梅林、曽我兄弟、寳金剛寺と富士山です。
『歴史を訪ねる旅』の皆様は歴史好きで、しかも精通している、爽やかで上品な方々の23名がご参加。10時にJR国府津駅に集合。すぐに段取りよく1班、2班に分け出発。梅見には最高の天気。鎌倉で見るより大きな富士山を仰ぎみることが出来たが、湧きだしている雲の行方が心配です。鎌倉ガイド協会の平田と田嶋のご案内です。
*菅原神社
神奈川県の三大天神(鎌倉荏柄天神・横浜岡村天神)のひとつと云われている。正歴5年(994)の創建。
 茅の輪を潜り、汚れをとる。境内には境内社として諏訪神社、「撫で牛」、「筆塚」、曽我兄弟が工藤祐経を討つ為に隠れていたという「曽我兄弟の隠れ石」がある。当地は童唄「とうりゃんせ」の発祥の地とも伝わる。
*寳金剛寺
 平安時代の天長六年(829)、弘法大師、十大弟子の杲隣が創建。ご住職のオリジナルティに溢れた詳しいお話を伺う。東寺真言宗。本尊地蔵菩薩は、平重盛が妹君、建礼門院徳子の安産を祈願したと伝えられ、治承2年(1178)に、男児を無事ご出産になり、後の安徳天皇になられた。現在も、安産にご利益があると言われ、安産祈願のお参りが続いている。 『廻り地蔵』(まわりじぞう)と呼ばれる、お厨子入りのお地蔵様のレプリカが、妊婦のおられるお宅に出産まで、貸し出されることがある。寺宝の大日如来像(国指定重要文化財)は
智挙印をむすぶ平安後期の金銅仏。大日如来の銅像はきわめて少なく、国指定文化財では全国唯一の貴重な尊像。銅造の大日如来像としては、おそらく日本最古作と思われる。
*行基作と伝わる臨済宗建長寺派の一徳寺を過ぎ、梅林に囲まれた日蓮宗の法蓮寺辺りは曽我の里である。
 見晴らしの良い岡に曽我兄弟の母親の満江御前の墓がある。三度の結婚を余儀なくされた御前の墓は今でもお供とされた末裔の方がお守りしているらしい。
*別所梅林
 枝垂れ梅が見事に咲く梅林で記念撮影。梅まつりで売店あり。梅を愛でながらの昼食。
 曽我梅林は45ヘクタール。別所梅林、原梅林、中川原梅林を総称して云う。富士山を背景に35,000本の梅の木がある。「白加賀」「十郎」「杉田」と実梅が多い。最近は観光用に八重の枝垂れ梅なども植栽。
*城前寺
 浄土宗。曽我城の大手門がこの辺りであったことから城前寺となった。創建は永治元年(1141)。曽我兄弟の叔父の宇佐見禅師が兄弟の菩提を弔う為に庵を結んだのがはじまり。境内の裏手には曽我兄弟、曽我祐信、満江御前の墓、歌舞伎関係者が造立した曽我兄弟遺蹟碑、曽我兄弟発願之像などがある。
曽我兄弟の仇討ちは仇討ちだけで済まなく頼朝暗殺説など政治的背景も絡んでいる。そもそも工藤 祐隆(藤原南家の流れをくむ工藤氏の6代目)が与えた所領分配が原因で、子孫たちの所領争いが仇討ちとして発展した。建久4年(1193)5月28日源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曽我祐成と曽我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件で赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。
*宗我神社
創建が長元元年(1028)大和政権の蝦夷征伐に従った蘇我氏の一族がこの地に土着して、後に宗我保慶が宗我都比古命を勧請し祀ったことが起源。後に曽我祐信(曽我兄弟の義父)が再建。室町時代の頃は小田原北条氏が鬼門鎮護の社として崇敬した。江戸時代は小澤明神として祀られたが、明治に宗我神社となった
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今回ご案内した曽我の里ではどこを歩いても梅、梅、梅に埋め尽くされていました。拙いご案内をはじめとして、梅まつり開催時はお寺の開扉がある筈でしたのに閉扉のお寺もあり、期待の富士山が雲に隠れて見えず、ご参加の皆様には申し訳なく思っています。それにも関わらず、笑顔で帰りの途についてくださったこと、本当に嬉しく思います。
「歴史を訪ねる旅」の皆様には過去5年間、毎年定期的にご案内しています。毎回ご希望をお聞きしたり、提案させて頂いたりして、変化にとんだご案内をさせて頂いております。これからも、ボランティアの精神を活かし、歴史や史跡のご紹介に加えて、明るく親しみあるご案内を考えております。
鎌倉ガイド協会 ガイド: 平田秀昭・田嶋早苗 


2017.03.16


特別ガイドDコースの紹介

鎌倉ガイド協会では、月例の3つのコース、史跡巡りAコース、Bコース、特別企画Cコース
に加えて、年間会員制特別ガイド(Dコース)として「鎌倉の祭と食を楽しむコース」を催行しています。このコースは鎌倉を中心に周辺地域の神社・寺院で行われる伝統ある「祭り」の日程に合わせて「祭り」に参加し、神仏を拝観し、そして神仏への饗応ということから、神仏と共に会員全員で食事をし、会員同志の親睦を深めるという趣旨のコースです。
 本コースの特徴は、先ずガイドがその「祭り」や関連事項の講座解説を行い、その後現地での
ご案内を行うもので、より楽しんでいただけるようにしたものです。

 来年度は、「PART6」と「PART7」の二つの異なるコースを催行しますが、それぞれ秋の「祭り」にはじまり、翌年の初夏までに、7回の「祭・食」への参加を予定しています。
会員募集はコースごとに、6月~7月、7月~8月にかけて行う予定です。募集内容につきましては、6月以降の月例史跡めぐりのレジメへの折込みチラシ、鎌倉ガイド協会のホームページをご覧ください。お電話でのお問い合わせも受け付けております。

今回は、3月3日に催行しました横須賀市芦名での「流し雛」について簡単にご紹介します。当日は、浄楽寺の運慶仏の公開もあり、一同大きな期待を寄せていました。
先ずは、鎌倉学習センターにおいて約1時間、スライドを用いて解説を致しました。雛まつりの歴史、意味、雛人形のまつり方やまつわる話等と浄楽寺の運慶仏(阿弥陀三尊像、不動明王立像、毘沙門天立像)の解説、仏師運慶の人となり、当時の仏師のこと、浄楽寺の由緒、それに加えて、芦名周辺の史跡(芦名城址、十二所神社)等の歴史を解説致しました。最後に、当日の「流し雛」の行われる芦名淡島神社と淡島信仰にまつわる話をして、現地へ出発いたしました。
会食後、浄楽寺で運慶仏を参拝し、淡島神社へ向かいました。淡島神社では神事の後、夕方、芦名の浜から小舟に乗せた雛人形とそれを曳く神職と巫女の乗った船が多くの人に見守られて船出します。沖に出ると、神職と巫女は願い事を込め身の穢れを移した雛人形付きお守りを海に流します。横須賀に残る古くからの民間信仰を伝える由緒ある祭りを浜辺でゆっくりと楽しみました。風情のある伝統の光景はほのぼのとするものでした。祭りは私たちの心の中に郷愁をよびさますものだと感じました。
                       (鎌倉ガイド協会ガイド 千葉祐子記)


2017.02.28


今回のテーマは『熊野の3大社 538(ご参拝)記』です。
講師は鎌倉ガイド協会 川出伊左男さんです。以下要旨です。
はじめに 鎌倉の熊野系神社は①極楽寺の熊野新宮②大船の熊野神社③浄明寺の熊野神社④手広の熊野神社⑤十二所の十二所神社と5社あり、全国には約3000社ある。その本宮が熊野の3大社である。熊野信仰と中世鎌倉との関係は①頼朝の石段の寄進と政子の2度の参詣②文覚上人荒行の地③平維盛入水の地、補陀洛渡海の地④小栗判官蘇りの地④神武天皇東征伝説⑤八咫烏⑥牛王宝印⑦徐福⑦ナギの神木 等がある。熊野信仰とは聖地と言われる熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を参拝し心身の蘇り、死から生への蘇りを願うことである。山伏や熊野比丘尼により、ナギの葉や牛王宝印と共に全国に広がった。
1、 熊野本宮大社
祭神 家津御子大神(素戔鳴尊)本地佛は阿弥陀如来であり西に位置し、西方極楽浄土に導く
2、熊野速玉大社
祭神 熊野速玉大神(伊弉諾尊)本地佛は薬師如来であり東に位置し東方瑠璃光浄土に導く
3、熊野那智大社
祭神 熊野夫須美大神(伊弉冉尊)本地佛は千手観音であり南に位置し南海補陀洛浄土に導く
4、 熊野への道(本宮大社・約束の聖地へとたどり着く道である。)
① 小辺路 高野山から南下する道で100キロ級の山を4つ越す72キロの道
② 大峰奥駈路 80キロあり鬼の口や千日回峰の大峰山がある厳しい道
③ 中辺路 メイン通路で京都から紀伊路そして中辺路に入る、50キロあり99の皇子神社がある道
④ 伊勢路 伊勢から130キロの道
⑤ 大雲取越、小雲取越 那智から北上する道
⑥ 川の道 新宮から熊野川沿いの道
5、 熊野速玉大社
新宮ともいい、熊野三所権現が最初に降臨した。イザナギがイザナミを黄泉の国へ追って行き、逃げ帰ったときに生まれたのが速玉之男の神(速玉大神)で病を遠ざけ健康をもたらす神で神仏習合して薬師如来として崇められた。
①神殿 第一殿 伊弉冉尊 第二殿(主神)伊弉諾尊・薬師如来 第三殿 素戔鳴尊 第四殿(若
宮)天照大神(十一面観音)第五殿 神倉宮 高倉下宮 
イザナギの映え輝く神霊とイザナミの万物を育成する産霊の二つが合わせ国生みであり、命の蘇りである。
②神武東征神話の舞台
日向の高千穂から浪速を通り紀伊名草に入り平定してきたが、長髄彦の軍と戦い、太陽の方向に向かい戦をしたため敗れた。そこで神武一向は熊野から上陸した。熊に出会い倒れたが天照大神からの太刀を高倉下から受け取り、太刀を振るうと悪しきものは退散し蘇った。これが神倉神社である。
「神倉神社」とゴトビキ岩 
神倉山には地方の言葉の「ヒキガエル」というゴトビキ岩があり、岩は高さ12m幅10mの大きさで熊野の3神が降臨した磐盾である。ゴトビキ岩に寄り添うように神倉神社が建っている。神倉神社への石段は538段あり「ご参拝」と今回の旅で名付けた。降臨するとスサノオは本宮へイザナギは速玉へイザナミは那智に行き鎮座した。新たに造営した神社が速玉大社で新宮という。
③熊野三山と頼朝・政子
頼朝は源平合戦の時、屋島・壇ノ浦で熊野水軍が200艘の船を出してくれて勝利したので神倉山への石段538段を寄進した。また政子には尼将軍石宝塔が佐野・浜の宮・荷坂・那智山の4ケ所に造られており、弟時房とともに2回の熊野詣でをした。
④徐福伝説と蓬莱山
中国の伝説である、仙境の地蓬莱山に仙藥を求めて東方海上を目指し出発した徐福は熊野に着いた。JR新宮駅南に徐福公園があり、後ろには蓬莱山がある。徐福公園には徐福像や円覚寺開山の無学租元の徐福を称える漢詩碑が建てられている。海の見える徐福上陸の地には記念碑が建てられている。徐福上陸伝承地は全国に28か所あり、近くでは藤沢妙善寺にある。
⑤熊野御幸
熊野御幸は907年~1303年までの間に、現当二世の安堵や熊野三山を味方にするために行われ、御幸の碑によると、後白河院の33回、後鳥羽院は29回で、上皇ら23人141回である。
費用は藤原定家の明月記によれば10月5日から10月26日まで人数数百人~千人で米は16石。
⑥新宮参詣曼荼羅図絵解きの説明(熊野比丘尼は曼荼羅図を持ち全国を歩き熊野詣でを勧めた)
日輪、月輪、神倉神社、ゴトビキ岩、本宮大社をはじめとする12所権現、扇立祭りの扇が12本、御船島、熊野川、丹鶴山(義朝の妹丹鶴姫は別当湛快と結婚し湛増を産む、湛増率いる熊野水軍は源氏の味方をした)。蓬莱山は徐福が上陸したところ、神武天皇上陸、ナギの御神木、牛王寶印を渡している、御燈祭(松明に火)、八咫烏 等が描かれている。
6、熊野那智大社
①神殿 第一殿 滝宮 大己貴命 第二殿 家津御子大神 第三殿 御子速玉大神 第四殿(主祭神)熊野夫須美大神(伊弉冉尊) 第五殿 若宮(天照大神)
階段500段の上に那智大社があり、朱色に塗ってある。右には青岸渡寺があり、左には塀の向こうに那智大社の神殿が見える。那智の大滝は133mであり、青岸渡寺の三重の塔が見える。
②文覚上人の蘇生
那智の滝は文覚上人蘇生の滝であり、荒行により気絶した文覚上人を蘇生させたのは矜羯羅童子と制叱迦童子である。
③平維盛の入水と補陀洛渡海船
清盛の孫、維盛は光源氏の再来ともいわれたが、富士川の合戦では水鳥の羽音で退散し、木曽義仲との倶利伽羅峠での戦いでは10万騎で攻めたが敗戦した。そして、一の谷の合戦では戦場から逃走し那智にて入水した悲劇の武将。
④和泉式部
奔放な恋愛遍歴を懺悔して諸国を行脚、熊野へ入り「晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき」と詠むと、熊野権現が現われて、「もろともに塵にまじわる神なれば月のさわりもなにかくるしき」と答えた。本宮大社の境内には和泉式部祈願塔がある。
⑤那智参詣曼荼羅図の絵解き説明
妙法山、花山法王、和泉式部、平維盛入水、政子供養塔、那智滝には文覚上人、三重の塔、補陀落渡海 平維盛 八咫烏、牛王宝印の作成、先達が夫婦を案内、等が絵図にある。
⑥青岸渡寺
天台宗の西国33観音霊場の1番 那智修験の拠点で滝壺より出現した如意輪観音がご本尊。
⑦ 補陀洛山寺(観音の浄土)
北条泰時の弓馬の友であった、下河辺六郎行秀は那須野の狩で大鹿を射損じ恥じて出家し熊野詣でをして補陀洛の世界に行った。渡海は868年から1722年まで19回あった。渡海船は逃げ出せないよう入り口はふさがれており、畳二畳ほどの広さで食料は30日分。
7、熊野本宮大社
①神殿 第一殿 西御前 熊野牟須美大神 第二殿 中御前 御子速玉之神 第三殿 証誠殿(主殿)家津美御子大神 第四殿 若宮 天照大神
熊野本宮大社の入り口には鳥居と日輪の中に八咫烏が描かれた神旗がある。神門があり神は父、仏を母、熊野よりあらたなる自分自身に出発を祈るとある。素木の神殿で荘厳。本宮は明治22年まで川の中州、大斎原にあったが大出水で流され現在地に遷った。跡地に平成12年日本一の大鳥居が建てられ、第五殿から第十二殿の神々を祀っている。
②一遍上人と熊野権現
「衆生が往生するのは御坊の勧めによるものではなく、南無弥陀仏と決定しているものである。だから信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし」と智信は熊野権現から告げられ時宗を開宗し一遍と名乗る。一遍上人自筆で南無阿弥陀仏を揮毫した「一遍上人神勅名号碑」がある。
③熊野詣での小栗判官蘇生伝説
小栗判官は相模の地で毒殺され閻魔大王の裁きで地上に戻されたが、一年の土葬により腐りはてた姿であった。遊行上人が丸太を輪切にした土車を作り「餓鬼阿弥陀仏」と名付け、引くことが供養になると書き添えた。様々な人が供養をし、照手姫も供養に大津まで伴走した。峯の湯について湯に投げ込まれると、7日で両目が空き、14日で耳が聞こえ、49日で6尺の豊かな元の体に戻る。つぼ湯は「熊野の子宮であり蘇りの聖地である」と宿泊した民宿小栗屋の主人は言っていた。
④八咫烏 
日向を船出した神倭磐余彦命は熊野に上陸し八咫烏の道案内で吉野から大和に入り神武天皇として即位した。八咫烏の3本の足は天(神のこと)地(大自然)人(人)で天と地は兄弟で人は兄弟の子、朝日、昼日、夕日の3つの太陽ともいう。日本サッカー協会のシンボルマークは明治初期日本にサッカーを導入した指導者の中村覚之助が那智勝浦の出身で八咫烏をシンボルマークとした。
⑤熊野本宮参詣曼荼羅図の絵解きの説明
日輪、月輪は三日月3つ、道成寺、藤原定家、十二単衣の和泉式部、神殿、大鳥居、役行者、熊野川、音無川、鬼退治、一遍と権現、小栗判官のつぼ湯、神輿渡御、八咫烏 等が描かれている。
⑥熊野牛王神符「オカラスサン」
熊野信仰の人々を災厄から守る御神符で、鎌倉時代には「誓約書」になり、江戸時代には「起請文」の代わりに用いられた。熊野権現への誓約を破ると、お使いの烏が三羽亡くなり、本人も血を吐き地獄に落ちると信じられてきた。三社のカラス文字は各大社により異なるが、熊野本宮大社はカラスが88羽、熊野那智大社はカラスが72羽、熊野速玉大社はカラスが48羽でカラスと宝珠がデザインされている。義経、秀吉、赤穂浪士等は、この熊野牛王を誓詞にしたとされる。江戸時代には遊女と客が取り交わす誓詞にまで使われ、庶民に広がっていた。
⑧ 熊野川舟下り
熊野本宮大社から熊野川の日足にて乗船、熊野速玉大社で降船する、16キロ1.5時間の川船の旅。右に和歌山県、左に三重県を見ながら、熊野夫須美大神が遊んだとされ、毎年御船祭りが行われる御船島を通る。語り部が笛の演奏をし、私達を熊野の神々に近づけてくれた。
⑧国宝 10世紀の始めに造られた像で、熊野夫須美大神坐像98㎝、熊野速玉大神坐像101㎝ 、家津御子大神坐像81㎝であり国宝に指定されている。
⑨ 熊野信仰のその後
蟻の熊野詣でと言われた熊野信仰は江戸時代後期紀州藩での神仏分離政策により衰退し、明治の神仏分離で大きな影響を受けた。1992年には皇族の参拝としては711年ぶりに皇太子殿下が熊野三山の参拝を行った。2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された。
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気の合う仲間と熊野三大社に538(ご参拝)をされ、実体験の中での講義は、臨場感があり、大社の建物の配置等情景を思い描くことが出来ました。今後、熊野神社では一層深いガイドが出来るような気にさせられました。中身の濃い講義ありがとうございました。


2017.02.05


平成29年1月14日(土)定例研修会が開催されました。
今回のテーマは『「-薬師信仰について-」と題して』
講師は鎌倉ガイド協会 大熊秀雄さんです。
1、 仏の名称
薬師如来は薬師瑠璃光如来が正式名称で(バイシャジャ・グル・バイドウーリャ・ブラバ・ラージャ)薬師如来は略称である。東方の浄瑠璃世界に住む。瑠璃光世界の功徳と美しさは阿弥陀の極楽浄土と変わらない美しさである。グルは尊者のことである。
2、 薬師如来の真言
真言は一つの仏様に長さのことなる三つの真言がある。咒とはサンスクリット語で神々への賛歌で
あった。
薬師如来の真言は小咒「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」中咒「オン ビセイゼイ 
ビセイゼイ ビセイジャサンポリギャテイ ソワカ」大咒「ノウモバギャバテイ バイセイジャ 
クロ ベイルリャ ハラバ アラジャ タタギャタヤアラカティ サンミャクサンボダヤ タニ
ヤ オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャサンボリギャティ ソワカ」 
3、 薬師如来が説かれている経典
◆ 建武~永昌年間(317~322年)帛尸梨密多羅訳◆大明元年(457年)慧簡訳◆大業1
1年(615年)達磨笈多訳◆永徽元年(650年)玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』◆景竜
元年(707年)義浄訳『薬師瑠璃光七佛本願功徳経』◆不空訳『薬師如来念誦儀軌』
4、 十二誓願
薬師如来は菩薩の時に十二の誓願をした。誓願は①光明普照②随意成弁③施無尽仏④安立大乗
⑤具戒清浄⑥諸根具足⑦除病安楽⑧転女得仏⑨安立正見⑩苦悩解脱⑪飲食安楽⑫美衣満足であり
現世利益の仏様である。
5、 日本の薬師如来信仰史(その1)
①古墳時代の538年又は552年欽明天皇の時代に百済の聖明王が仏像や経典や仏教の功徳を称賛した上表文が日本に入ってきた。
②飛鳥時代 607年には法隆寺金堂・薬師如来坐像を造立し用明天皇の病気平癒を祈願し、680年には天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して薬師寺を興す。また天武天皇不安の為、川原寺で薬師経を説いた。
③奈良時代 720年には藤原不比等の病を救うため48寺に一昼夜薬師経を読ませた。聖武天皇
は叔母の元正太上天皇の病気平癒のため、興福寺東金堂を創建、本尊の丈六薬師三尊が安置された。
741年聖武天皇の詔勅により全国に国分寺を建立する。現存する国分寺の本尊は薬師如来が多い。
744年には七日間の薬師悔過を修せしめた。
天皇の不予には、薬師悔過を修め、新薬師寺の創建や、七仏薬師を造るなどした。
その後、国分寺は火災等で失われ、平安時代には定額寺が増加し、国分寺としての機能は失われたが、国分寺と名乗る寺院は相当数残っている。
6、 国分寺の本尊
全国68ケ国52寺の中で薬師如来が本尊の国分寺は29ケ寺、釈迦如来が本尊の国分寺は3ケ寺
である。薬師寺を始めに・浄瑠璃山・東光山・医王山・東光寺・瑠璃光寺・薬王院等の名前が付い
たお寺があれば薬師如来を祀っていたお寺である。薬師如来の現世利益的性格は古代の人々の心を
捉えたようで、特に天皇皇后、貴族は病気平癒などを祈願した。現世利益を司る如来なので、延暦
寺、神護寺、東寺、寛永寺のような典型的な国家護持を担う密教寺院では薬師如来を本尊とする寺
院が多い。
7、 日本の薬師信仰史(その2)
① 奈良時代 最澄は比叡山に草庵を築き、薬師像を根本中堂に本尊として安置する。また、最澄
渡唐のおりには渡海安穏を祈念し大宰府で薬師像を造立した。②平安時代 仁明天皇の病気や中宮
の出産には七仏薬師を修めた。「七仏薬師法現行記」によると41件中18件がお産平安目的であ
り七仏薬師法が安産に効験があると信じられていた。
次第に薬師如来信仰が室生寺、寛永寺、山形の立石寺、水沢市の黒石寺、会津の勝常寺、広島の古
保利薬師堂と地方に広がりながらも、阿弥陀如来への信仰の高まりで主役の座は移っていった。
また、病気の原因が政争に敗れた人々の怨霊や死霊により起こると考えるようになり、不動調伏法
などの加持祈祷が重視され除病安楽の薬師如来の地位が低下した。
8、 阿弥陀如来との関系
薬師如来本願経や七仏薬師の経典には薬師の浄土と阿弥陀の浄土を比較した箇所があることから
成立は阿弥陀経より後である。大乗仏教は人々が東方に救世主を求め、阿閦如来を考え出した。次
に西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を救世主と考えた。仏の救いを信じた人の臨終には必ず阿弥陀如
来が迎えに来てくれると信じ「浄土往生」の思想が広まり阿弥陀如来信仰が盛んになった。その後
人々は現世利益の欲求から薬師如来が登場した。美しい浄土を持ち、衣食を満たし十二分な医療も
施してくれるので薬師如来信仰が広まり、薬師如来像も多く造られた。
9、 密教との関係
胎蔵界、金剛界の両曼荼羅には薬師如来は描かれていないので、真言宗では重視されていない。
密教経典としては「薬師瑠璃光如来消災難念誦儀軌」「薬師七仏供養儀軌如意王経」等がある。
「覚禅抄(東寺密教系)」では胎蔵大日如来と同体であり、
「阿娑縳抄(天台密教系)」では釈迦如来・大日如来と一体とされる。
高野山金堂の本尊は薬師如来である。
秘密にせず明らかに説かれた教えを顕教といい、顕教での妙法蓮華経に説かれる久遠実成の釈迦如
来は密教系の大日如来との解釈と、釈迦如来の衆生救済の姿という二つの見方による。また、東
方の如来ということから五智如来の阿閦如来とも同一視される。
五智如来は五大如来ともいい、密教で5の知恵(法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成
所作智)を5体の如来にあてはめたもので金剛界五仏のことである。(例)東寺講堂や安祥寺の像
が著名である。大日如来(中心)阿閦如来(東方)宝生如来(南方)観自在王如来(阿弥陀如来)
(西方)不空成就如来(北方)となっている。
10、 修験道との関係
密教で行われていた山中修行と日本古来の山岳信仰が結びついたもので、修験道の法流は真言宗系
の当山派と天台宗系の本山派と各地の霊山を拠点とする国峰修行に分かれている。最澄が根本中堂
の本尊として薬師如来を祀ったことにより薬師信仰が天台宗と共に全国に広まった。
現世利益信仰を説く薬師如来や不動明王の広まりは、修験者(山伏)の活躍に負うところが多かっ
た。薬師の冠を持つ山々は全国に点在し霊峰富士にも薬師如来が祀られた。
11、 像容
薬師如来は、立像・坐像があり、印相は右手施無畏印、左手与願印とし、左手に薬壺を持つ像が一
般的である。不空(705年~774年)訳の「薬師如来念誦儀軌」の伝来以降に薬壺を持つ像が
造られた。
単独像として祀られる場合、日光・月光菩薩を脇侍とし薬師三尊として祀られる場合と眷属として
十二神将像を安置することもある。
十二神将は薬師如来の守護神として一神将7千人の兵を従い甲冑に身を固めた武人の姿が多い。
十二神将と十二支は宮毘羅(子)招杜羅(丑)真達羅(寅) 摩虎羅(卯)波夷羅(辰)因達羅(巳)
珊底羅(午)頞儞羅(未)安底羅(申)迷企羅(酉)伐折羅(戌)毘羯羅(亥)である。
12、 七仏薬師
薬師如来の光背には七体もしくは六体の同じ大きさの像があり、薬師如来と化身仏とされる。七仏
薬師は息災・安産をもたらすとして重要視され、8・9世紀には藤原摂関家では安産祈願が行われ
た。七仏薬師の浄土は善名称吉祥王如来(光勝国浄土)宝月智巌光音自在王如来(妙宝国浄土)金
色宝光妙行成就王如来(国満香積国浄土)無憂最勝吉祥王如来(無憂国浄土)法海雷音如来(法幡
国浄土)法海勝慧遊戯神通如来(善住法海国浄土)薬師瑠璃光如来(浄瑠璃国浄土)
13、 吾妻鏡に見る鎌倉の薬師信仰
政子の安産祈願に日向薬師を始めとして相模国内の寺社で加持祈祷が行われ、無事実朝出産した。
頼朝は日向薬師に参詣しており、政子も度々日向薬師に参詣し薬師信仰が深かった。永福寺に
は薬師堂を創建し、神宮寺(現白幡神社付近)には薬師三尊像を安置した又金銅薬師三尊を造立し
のちに八幡宮・座不冷壇所に安置位し読誦が絶えることは無かった。実朝は持仏堂に七仏薬師像を
安置し健康祈願に関し薬師如来に恃むところが多かった。
北条義時は大倉薬師堂を建立、運慶作の薬師如来像を安置し、夫人の出産には薬師如来を供養し
た。また大倉薬師堂焼失には直ちに再建している。北条時頼も子息の祈祷には七仏薬師像を供養し
宗尊将軍の病気平癒にも薬師護摩を修した。自身の大病に薬師如来像を本尊として忍性上人の祈祷
を受け平癒したので極楽寺に薬師如来像を納めた。円覚寺には延寿堂設営、薬師如来像を造立して
いる。北条貞時は大倉薬師堂を覚園寺とし、鎌倉薬師信仰の中心的存在とした。
14、 鎌倉時代以降の薬師信仰
覚園寺で十二神将・脇侍造立が行われ、八幡宮では薬師如来懸け仏を造立した。極楽寺では薬師如来像の再建を発願した。また、海蔵寺でも十二神将を造立した。
15、 現在の鎌倉で薬師如来を本尊としているお寺
◆鷲峰山真言院覚園寺◆扇谷山海蔵寺◆泰澄山瑠璃光寺宝善院◆龍護山医王院満福寺の4ケ寺
16、 その他の鎌倉の薬師如来
◆旧辻薬師堂・薬師如来(二階堂行光が東光寺を創建し廃寺の後、名越・長善寺~大町・辻薬師~国宝館と変遷)◆極楽寺・薬師如来坐像(療病院~釈迦堂~盗難~古仏頭部で明暦2年再建)◆寿福寺・金銅仏(八幡宮・座不冷壇所~廃仏毀釈により寿福寺に)◆八幡宮・神宮寺本尊(松源寺~寿福寺~あきる野市・新開院)◆円覚寺・選仏堂(延寿堂~薬師堂~選仏堂)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
大熊ガイドは『覚園寺のガイドを引き受けたことから「薬師如来」の勉強が始まった』とのことで
すが、薬師如来についての講義は、経典から密教や阿弥陀如来まで、大変深く、多岐にわたる内容
で、薬師如来が少し近づいたような気がしました。本日は有難うございました。


2017.01.03


明けましておめでとうございます。
鎌倉ガイド協会は平成3年4月に31名で“鎌倉シルバー・ボランティアガイド協会”を設立したのが始まりです。
平成20年にはNPO法人の“ 鎌倉ガイド協会”に名称を変更し、本年3月で創立26年を迎えます。
昨年4月よりの鎌倉ガイド協会主催「10期生ガイド養成講座」を終えた33名が本年1月から新メンバーとして当会に加わりました。
新メンバーを加え128名でこれからもおもてなしの心で皆さまをお迎えし、味わい深く「歴史・文化と豊かな自然の街・鎌倉」をご案内いたします。
皆さまのご期待に沿えますよう努めて参りますので、よろしくお願い申しあげます。
(鎌倉には社寺、史跡、別荘建築、芸術文化、行事などさまざまな文化財があります。それらがまるでモザイク画のように組み合わされたまちであるとしてまとめたストーリー「『いざ、鎌倉』~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~」が、昨年文化庁により“日本遺産”に認定されました。)


2016.11.21


平成28年10月30日に第31回鎌倉市教養センター文化祭が行われ、「鎌倉市における歴史まちづくりの取り組み」と題して公開講座が行われました。講師は鎌倉市役所歴史まちづくり推進担当の不破寛和担当課長と髙橋悠子担当主査です。
1 はじめに
鎌倉市におけるまちづくりの計画
鎌倉市では、第3次総合計画を平成8年度から30年の期間で基本構想を「市の将来都市像と施策の基本的な方針を定める」とした。基本計画は10年ごとに定め推進してきたが、2期目の途中である平成26年度に財源不足に加え、東日本大震災を踏まえた安全・安心なまちづくりなどに対応するため、見直しを前倒しして行った。第3期基本計画は平成26年度から31年度の6年とし、まちづくりの原点に立ち返り「歴史的遺産と共生するまちづくり」を掲げた。具体的な施策として①世界遺産登録の推進②歴史文化交流センターの整備③歴史的風致の維持向上を計画に盛り込んだ。
2 世界遺産登録の取り組みについて
1) 世界遺産登録を目指した理由
昭和33年平和都市宣言が行われ、昭和39年には御谷騒動が起こり、市民の手による活動が盛んとなった。ナショナルトラスト運動から古都保存法の制定につながり、昭和48年の市民憲章では私たちは「先人たちにより守られてきた歴史的遺産や周囲の自然環境を、確実に保全し、未来へ伝えていく責任がある。」とし、このことを推進するには世界遺産登録が最も有効的な手法であると考えた。
2) 世界遺産登録の経過
平成4年9月 国の暫定リストに登載され、鎌倉市では世界遺産登録に向け、第3次総合計画への位置づけを行い、平成19年度から神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市の4県市で推進委員会を設立し進めていった。平成24年1月にはユネスコへの申請を行い、同年9月イコモスの現地調査があった。残念ながら、平成25年4月イコモスの不記載勧告を受け、同年6月推薦を取り下げ、その後1年をかけて勧告の分析・検証結果をまとめた。
3) 「武家の古都・鎌倉」の「不記載」勧告の原因の追求
①都市全体を構成資産とみなされたため武家政権及び政権都市などを示す物的証拠が不足している。
②社寺等個々の文化遺跡と国内外の文化財との比較研究に基づく価値の説明が不足している。
③国内的価値に止まらない世界的普遍性を訴える説明が不足している。
不記載の最大の原因としては、国内的価値はあるが比較研究が不足している。再推薦・登録には比較研究により「鎌倉」の顕著な普遍的価値「武家の古都・鎌倉」に代わるコンセプトの再構築が必要である。平成26年から平成28年度比較研究を中心とした基礎的な調査研究に取り組んだ。
4) 比較研究とは
寺院の伽藍・建築・庭園など鎌倉の文化遺産の個々の要素と国内外の類似資産を詳細に比較し、相違点を明らかにしていくことで価値を浮き彫りにする。文献調査や有識者からの意見聴取等、国内外の類似資産の現地調査を行ってきた。
5) 何を比較するのか
イコモス勧告で評価された要素として、社寺については「今日、鎌倉が十分な物証を示しているのは、寺院に関連した精神的文化的側面であり」と高い評価を得ている。また切通及びやぐらも比較的評価された。評価された要素を掘り下げることとし、6つに絞って取り組んできた。
 今年度は比較研究の最終年なので研究成果を発表し講座を行う。再推薦は新しいコンセプトがまだ見えていないが再チャレンジしていく予定である。
3 (仮称)鎌倉歴史文化交流センターについて
市民が鎌倉の魅力や価値を共有することで、歴史的遺産を確実に守り、後世に伝えられる。子供たちが鎌倉の歴史や文化を学ぶ機会を充実させ、学ぶ場をつくることで、継承すべき歴史的・文化的価値が発信できる。
平成25年3月にセンチュリー財団より寄付を受けた土地約15,000㎡と3棟の建物に、学べて発信するセンターを平成29年4月開館予定である。建物の2棟はイギリス出身の著名な建築家であるノーマンフォスターがデザインした建物で、A棟B棟合計約400㎡の展示スペースとなる。 展示方法は検討中であるが、時代別に中世・近現代・考古とし、将来的には交流センターと博物館が一体になるセンターを考えている。
4 歴史的風致維持向上計画について
1) 推進にあたって
これまでのまちづくりの制度では、文化財周辺の環境保全や環境整備は困難であり、歴史的環境を復元・整備するには限界がある。そのような中で、新たに相続問題により歴史的建造物やまち並みの喪失や地域の伝統芸能の担い手不足が生じてきた。そこで歴史まちづくり法第5条を活用し、歴史的風致維持向上計画を作成し、主務大臣(文部・農林・国土)の認定を受けることにより、国の補助金を受け「歴史的遺産と共生するまちづくり」を推進することにした。
2) 歴史的風致とは
歴史上価値の高い建造物、歴史と伝統を反映した人々の活動、人々の活動と建造物が一体となった良好な市街地環境で構成される。
3) 鎌倉市における歴史的風致の構成
①社寺における祭礼・行事にみる歴史的風致(頼朝像・建長寺・円覚寺・鶴岡八幡宮など)
②海にまつわる伝統行事にみる歴史的風致(和賀江嶋・小動神社など)
③若宮大路周辺における商いにみる歴史的風致(三河屋本店・湯浅物産館など)
④周遊観光にはじまる「江ノ電」にみる歴史的風致
⑤別荘文化に由来する歴史的風致(鎌倉文学館・扇湖山荘・鎌倉彫など)
⑥歴史的遺産と一体となった山稜の保全活動にみる歴史的風致(やぐら・切通など)
4) 鎌倉市の取り組み
平成27年12月16日に国に申請し平成28年1月25日に認定を受けた。鎌倉市は50番目に認定を受け現在59団体が認定を受けている
平成28年度から補助金等を得ながら歴史的風致の維持向上に関する事業を実施する
5 日本遺産の認定について
1) 日本遺産とは
平成27年度に国内外へ魅力を発信し、地域活性化を図るとして、有形・無形の文化財を織り込み、地域の歴史的魅力や文化の特色をわかりやすく表現する「ストーリー」を日本遺産として文化庁が認定するとしてスタートした。
2) 日本遺産認定に向けた取組経過
平成27年11月社寺関係者から平成28年度認定に向け強い要請を受けた。鎌倉市歴史的風致維持向上計画の策定作業を通じてストーリーの目途がたったこと、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けたインバウンド対策等の環境整備の必要性から、平成27年12月に認定申請に向け取り組むことを決め、平成28年4月に認定された。
3) 認定されたストーリー
「いざ、鎌倉」~歴史と文化が描くモザイクのまちへ~
鎌倉は、源頼朝によって幕府が開かれた後、急速に都市整備が進められ、まちの中心は鶴岡八幡宮、山には切通し、山裾には禅宗寺院をはじめとする大寺院が造られた。
この地に活きた武士たちの歴史と哀愁を感じられる古都鎌倉は、江戸時代には信仰と遊山の対象として脚光を浴び、明治時代には多くの別荘が建てられたが、歴史的遺産と自然とが調和したまちの姿は守り伝えられてきた。
このような歴史を持つ古都鎌倉は、自然と一体になった中世以来の社寺が醸し出す雰囲気の中に、各時代の建築や土木遺構、鎌倉文士らが残した芸術文化、生業や行事など様々な要素がまるでモザイク画のように組み合わされた特別のまちになった。
4) 構成文化財について
寺社、史跡、別荘建築、商店、無形文化財、伝統工芸品など54件
4) 日本遺産事業について
平成28年6月28日協議会設立、情報発信・人材育成・普及啓発事業を行う
5) 日本遺産のメディア活用
平成28年11月13日 BS-TBS9:30~新番組「日本遺産」
鎌倉市 平成29年1月15日放映
平成28年11月15日フジテレビ24時間ニュース専門インターネットチャンネル「ホウドウキョク×GoGo」等で
6 おわりに
将来都市像「古都としての風格を保ちながら、生きる喜びと新しい魅力を創造するまち」をめざし、緑や景観を守り、歴史的遺産を守り、市民生活を守りながら、歴史的遺産と共生するまちづくりを進める。
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鎌倉でガイドをさせて頂くと、街の中は観光客が多く、道路状況等が気になります。しかし、街を少し奥に入ると静かな佇まいの残る小路や寺院があり、タイムスリップしたような不思議な気持ちにさせてくれます。今後もこのような街が残ったら・・・と思っております。
まちづくりの方々と市民の方達の努力を感じながらまちづくりの方々と市民の方達の努力を感じながら感謝!。本日はお忙しいなか有難うございました。


2016.09.30


平成28年9月10日(土)定例研修会が開催されました。
今回のテーマは『「-禅宗様建築の典型と現存鎌倉建築にみる変化―」と題して』、講師は鎌倉ガイド協会 松林宏さんです。
1.寺院建築史に於ける禅宗様建築
寺院建築は仏教の伝来とともに百済・唐様式の建築様式が伝えられた。その後、仏と人の距離の変化があり寺院建築も変化する。飛鳥時代(例、法隆寺)は金堂と塔を回廊が囲み、回廊の中は仏の場所であり、人は入ることはできず中門の外から礼拝する。平安初期(例、東寺灌頂院)では仏のいる正堂の前に礼堂が並んで建てられ(双堂)、礼堂から礼拝するようになる。平安末期(例、浄土寺本堂)では一つの建物内に、仏のいる内陣と礼拝する人のいる外陣を設けるようになった。礼拝スペースを確保するため、柱も取り除かれ仏と人はより近くなった。本日のテーマである禅宗建築はこの形式である。
894年遣唐使の中止により、中国からの情報が入らなくなると日本的な考え方のもとで建物は変化し、和様建築と称されるようになった。日本特有の気候、多雨や夏の高湿度に合うように野小屋や桔木が発明され、広く採用されるようになった。奈良時代には屋根の勾配は緩やかであったが、平安末期以降、鎌倉時代に改築された法隆寺東院夢殿に見られるよう、野小屋により屋根の勾配は急になり屋根寿命や雨漏り対策になり、桔木により軒の長さを増すことができるようになった。
次に、寺院建築史の大きな変化として、鎌倉時代初期に輸入された大仏様(例、東大寺南大門)と鎌倉時代中期に輸入された禅宗様(例、円覚寺舎利殿)が挙げられる。大仏様の東大寺南大門と禅宗様の円覚寺舎利殿を比較すると軒下の組物の組み方が違う。南大門は中国で学んだ重源が関与したもので、柱に穴を開け肘木を差し込む「挿肘木」に特徴がある。軒下は外側に組物があるが、内側にはなく、挿肘木の何本かに一本が中央柱まで通っている。大仏様、禅宗様は、柱に貫穴を掘り貫を通す方式であり、和様の長押より耐震性に優ることから、その後和様にも取り入れられるようになった。
室町時代以降には寺院・神社建築として、霊廟建築が建てられるようになり、鎌倉には建長寺仏殿に見られる禅宗仏殿風霊廟建築が現存している。
2.禅宗様建築の典型
1)建長寺の伽藍指図(鎌倉五山級建築)と現在の建物の比較
[仏殿] 伽藍指図 方五間裳階付 桁行27m×梁行25m 租師堂・土地堂を含め41m 
現存の類似建築例としては東福寺仏殿の41m
現在の仏殿 方三間裳階付 桁行12m×梁行12m 
[法堂] 伽藍指図 五間三間裳階付 桁行27m×梁行20m二階に千仏閣 
現存の同規模建築例としては相国寺の法堂 五間四間 桁行28m
   現在の法堂 方三間裳階付 桁行19m×梁行16m
[山門] 伽藍指図 五間三戸二階二重門 25m×12m 現存の同規模建築としては東福寺山門
   現在の山門 三間一戸二階二重門 桁行13m×梁行8m(五山級ではなく中規模の建築)
三門とは三解脱門のことであり、三つの通る門があることから本来は三戸である。
2)禅宗様建築の典型
 [円覚寺舎利殿] 中世禅宗様の典型であり、鎌倉唯一の国宝建築である。方三間裳階付であり、五山級の仏殿ではなく中規模の部類に入る。内部は化粧屋根裏から一間×一間の鏡天井にむかいせり上がっている。回廊の内側から見ると建物は横広で、屋根の二本の横の直線が強く見え、両端で美しい反り上りが見える。立面図は遠方正面から見たのと類似のもので、建物は縦長で全高に対し屋根の割合が大きく、両端の反り上りは目立たない。このことから、建築物は見る位置(距離)で印象が大きく異なることが分る。
[軸部]柱と梁と貫により構成され、貫は鎌倉時代初期の大仏様から使用され始めた。禅宗様でも柱に貫穴を掘り貫を通した。貫を用いることにより壁はなくても耐震性に優れる。一方、和様では長押で柱を挟みつけるようにし壁に厚い土壁を塗る(例、鶴岡八幡宮)。
頭貫の上には平らな台輪を入れる。これは禅宗様の特徴である詰組(柱と柱の間にも組物を置く)にする場合、台輪を入れることにより幅が広くなり、組物が安定するからである。また礎盤であるが、現在は装飾とみられているが、当初は自然石の礎石と柱の間に入れて軸高さを調整するためのものであった。
 貫を採用するにあたり、貫通孔をあける長ノミも輸入された。それまでの日本のノミは大きな木を縦方向に割るために使用されたもので、短いものしかなかった。当時の大工道具としては、それ以外に、墨付け・ノコギリ(木の葉ノコギリで齒のついている所がカーブしており木を直角に切る)・手斧・ヤリガンナ(削る道具)・曲尺・水バカリ(水平を測る)があった。
 [架構]舎利殿は桁行三間梁行三間一重裳階付、一つの建物の中に仏の内陣と礼拝場所(外陣)がある。礼拝場所の空間を広げるため大虹梁と大瓶束により二本の柱を省略している。主屋の柱上にのる三手先組物の内側には斜材の持送りで上の尾垂木尻を支え、尾垂木尻と天井の組物とは繋虹梁で連絡する。内部の空間は垂木や持送りが斜めに上がり、ドームのように中央を高め、壮大な感じを与える。
[垂木]軒の垂木の種類として、禅宗様の扇垂木、和様の平行(指)垂木、大仏様の隅扇垂木(中央が平行で角だけが扇)がある。平行垂木においては隅の垂木は側桁まで届いていず、隅木に取り付けるので隅木に負担がかかり、隅の軒が下がりやすい。これを防ぐため法隆寺金堂では隅木の支えとして龍の彫刻の柱があしらってあり、東福寺の山門にも柱が立っている。舎利殿の垂木は主屋が扇垂木で、ほぼすべてが扇のように開いているが、裳階は平行垂木である(裳階の軒長さは主屋に比べ短いので、扇垂木にする必要がない)。扇垂木は隅にある垂木であっても、側桁に乗っており軒を支えていて、隅木への負担はない利点がある。扇垂木の配置は当時の大工にとっては難しいものであり、技法として鎌倉割・等間割が伝わっている。鎌倉割は1.7寸勾配(曲尺で長手尺1尺行くと短手尺で1.7寸上げる)の補助線を引いて、その長さを垂木の本数で均等に割って垂木真とする。扇形に配置すると扇の要側(建物内)では垂木同士が干渉しあうので、間引いて一本おきに中心まで通す。
[組物] 鏡天井のまわりの組物は水平を支えることから前後左右差がない。内側も外側も二手先斗栱で同じように支えている。一方垂木を支える組物には尾垂木が使用されており、台輪を支点として母屋桁と軒先側は丸桁を天秤で支えるので内側と外側では形状が異なる。三手先斗栱では二つの尾垂木が使われ、尾垂木は大虹梁に平行(壁に直角)となっている。
[詰組] 組物を柱上だけでなく、柱と柱の間に設けるものを詰組という。舎利殿では組物を中央間では2組、脇間では1組設置している。組物の間隔を同じにすると、中央間と脇間の広さの比は3:2になり、時代が下がるとこの比の建物が多くなる。舎利殿ではこの比が4:3である。和様では柱間に間斗束や蟇股があしらわれているが、斗栱と異なり軒支えの機能は有していない。
 3.現存鎌倉建築にみる変化
[円覚寺仏殿] 昭和39年に完成した鉄筋コンクリート造りであるが、外観は1573年の図面「高階文書」を元に造られた禅宗様を引き継いでいる。県立博物館には模型がある。桁行五間×梁行五間一重裳階付き、高階文書の建物の桁行は27.4mに対し現在の仏殿は19.1mであり小さいが五山級の仏殿の典型様式である。
現在の仏殿内部は中央に三間×三間の鏡天井がある。高階文書の建物では前から二間目の所に高く太い柱列が並び、内陣五間×三間と外陣五間×二間に分けられており、鏡天井も三間×二間と三間×一間に分割されていた。また高階文書では内部に組物(尾垂木尻による母屋桁の支え)が存在するが、現在の仏殿では内部の組物が省略されている。礼拝空間上部には豪壮な大虹梁、大瓶束の架構が見える。現在の仏殿は前から二間半の所に柱を設け、前側二間半、後側一間半を大虹梁で繋ぎ、二間目の柱列を省略したため内陣と外陣の区分が明確ではないが、より広大な空間となった。堂々たる二重屋根の外観、ゆったりした高大な内部、豪壮な上部虹梁大瓶束架構は中世五山仏殿にふさわしい内容を持つ。
[建長寺仏殿] 寛永五年(1628)建築の禅宗仏殿風霊廟建築として優れている。方三間裳階付の形式は禅宗様仏殿の典型的なものであるが、和様も多く取り入れられている。内部の天井は格天井で中央後方は折り上げ格天井であり和様。組物は四手先で通常の禅宗様より一手多い。組物を中央間と脇間に二組ずつ設けているので、中央間と脇間の幅は等しいのも禅宗様と異なる。三間×三間の主屋全面に天井があり、禅宗様と違って柱頭より1.7mくらい下に長押をうち、そこから一面に格天井をはっている。禅宗様の典型では、頭貫・台輪上に組物がのり、その上に天井となる。また建物内の組物は天井により隠され見えないので、組物の建物内部側は省略されている。仏殿の桁行は12m、舎利殿は8mであるが、天井の高さは同じくらいの高さである。内部は和様の意匠となっていて、長押には彩色模様、天井には極彩色の花鳥が描かれていて桃山時代の風をよく表している。
[建長寺法堂] 文化十一年(1814)上棟11年後に完成、方三間の主屋に裳階を付けた方三間裳階付で、桁行19.1m×梁行16.4mで大建築物である。主屋の組物は二手先となっているが禅宗様のように尾垂木はない。詰組になっているが組物と組物の間には間斗束と二つの斗を置いている。天井を柱頭より低い位置にはっているのは仏殿の影響と考えられる。主屋全面が鏡天井で、建物の高さの半分より下に天井がある。内部に入ると柱の下には組物も見えない。禅宗様五山仏堂の量感をもちながら、定型的な禅宗様を打ち破り鎌倉大工の意匠を発揮している。
[山門の比較] 鎌倉には二階二重門が建長寺、円覚寺、光明寺、英勝寺にあり、桁行の規模で言えば、円覚寺は建長寺の8割、光明寺は建長寺より2割くらい大きい。建長寺・円覚寺は三間一戸二層二重門、光明寺は五間三戸二階二重門である。光明寺の山門形式五間三戸は五山級であるのに対し、建長寺の山門は三間一戸で中級であるが堂々として五山級の風格がある。これは屋根正面中央に大軒唐破風があること、木割が大きいこと、屋根が通常と異なり二階の方が大きく作られているため覆いかぶさるように見えることにある。
資料に付録として円覚寺舎利殿・建長寺仏殿・建長寺法堂・建長寺山門の大きさを比較するため、同縮尺の図面を入れておきました。同じ方三間でも大きさが違いますので参考にしてください
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「松林ガイドは優秀で信頼のおける方で、まるで手品師のように必要な資料を次々と出す」と班長の紹介がありましたが、9期生曰く「パソコンの神様」、その上に「日本建築大工技能士会研修会」という他分野で講師を勤めておられます。分かりにくい建築様をパソコンで作成した資料を使い、分かりやすく講義頂きました。本日は有難うございました。


2012.09.01

「古都鎌倉史跡めぐり2017/6月実施分から2017/8月実施分までを掲載しています。詳細は「毎月恒例の古都鎌倉史跡めぐり」のページをご覧下さい。


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