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2017.01.03


明けましておめでとうございます。
鎌倉ガイド協会は平成3年4月に31名で“鎌倉シルバー・ボランティアガイド協会”を設立したのが始まりです。
平成20年にはNPO法人の“ 鎌倉ガイド協会”に名称を変更し、本年3月で創立26年を迎えます。
昨年4月よりの鎌倉ガイド協会主催「10期生ガイド養成講座」を終えた33名が本年1月から新メンバーとして当会に加わりました。
新メンバーを加え128名でこれからもおもてなしの心で皆さまをお迎えし、味わい深く「歴史・文化と豊かな自然の街・鎌倉」をご案内いたします。
皆さまのご期待に沿えますよう努めて参りますので、よろしくお願い申しあげます。
(鎌倉には社寺、史跡、別荘建築、芸術文化、行事などさまざまな文化財があります。それらがまるでモザイク画のように組み合わされたまちであるとしてまとめたストーリー「『いざ、鎌倉』~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~」が、昨年文化庁により“日本遺産”に認定されました。)


2016.11.21


平成28年10月30日に第31回鎌倉市教養センター文化祭が行われ、「鎌倉市における歴史まちづくりの取り組み」と題して公開講座が行われました。講師は鎌倉市役所歴史まちづくり推進担当の不破寛和担当課長と髙橋悠子担当主査です。
1 はじめに
鎌倉市におけるまちづくりの計画
鎌倉市では、第3次総合計画を平成8年度から30年の期間で基本構想を「市の将来都市像と施策の基本的な方針を定める」とした。基本計画は10年ごとに定め推進してきたが、2期目の途中である平成26年度に財源不足に加え、東日本大震災を踏まえた安全・安心なまちづくりなどに対応するため、見直しを前倒しして行った。第3期基本計画は平成26年度から31年度の6年とし、まちづくりの原点に立ち返り「歴史的遺産と共生するまちづくり」を掲げた。具体的な施策として①世界遺産登録の推進②歴史文化交流センターの整備③歴史的風致の維持向上を計画に盛り込んだ。
2 世界遺産登録の取り組みについて
1) 世界遺産登録を目指した理由
昭和33年平和都市宣言が行われ、昭和39年には御谷騒動が起こり、市民の手による活動が盛んとなった。ナショナルトラスト運動から古都保存法の制定につながり、昭和48年の市民憲章では私たちは「先人たちにより守られてきた歴史的遺産や周囲の自然環境を、確実に保全し、未来へ伝えていく責任がある。」とし、このことを推進するには世界遺産登録が最も有効的な手法であると考えた。
2) 世界遺産登録の経過
平成4年9月 国の暫定リストに登載され、鎌倉市では世界遺産登録に向け、第3次総合計画への位置づけを行い、平成19年度から神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市の4県市で推進委員会を設立し進めていった。平成24年1月にはユネスコへの申請を行い、同年9月イコモスの現地調査があった。残念ながら、平成25年4月イコモスの不記載勧告を受け、同年6月推薦を取り下げ、その後1年をかけて勧告の分析・検証結果をまとめた。
3) 「武家の古都・鎌倉」の「不記載」勧告の原因の追求
①都市全体を構成資産とみなされたため武家政権及び政権都市などを示す物的証拠が不足している。
②社寺等個々の文化遺跡と国内外の文化財との比較研究に基づく価値の説明が不足している。
③国内的価値に止まらない世界的普遍性を訴える説明が不足している。
不記載の最大の原因としては、国内的価値はあるが比較研究が不足している。再推薦・登録には比較研究により「鎌倉」の顕著な普遍的価値「武家の古都・鎌倉」に代わるコンセプトの再構築が必要である。平成26年から平成28年度比較研究を中心とした基礎的な調査研究に取り組んだ。
4) 比較研究とは
寺院の伽藍・建築・庭園など鎌倉の文化遺産の個々の要素と国内外の類似資産を詳細に比較し、相違点を明らかにしていくことで価値を浮き彫りにする。文献調査や有識者からの意見聴取等、国内外の類似資産の現地調査を行ってきた。
5) 何を比較するのか
イコモス勧告で評価された要素として、社寺については「今日、鎌倉が十分な物証を示しているのは、寺院に関連した精神的文化的側面であり」と高い評価を得ている。また切通及びやぐらも比較的評価された。評価された要素を掘り下げることとし、6つに絞って取り組んできた。
 今年度は比較研究の最終年なので研究成果を発表し講座を行う。再推薦は新しいコンセプトがまだ見えていないが再チャレンジしていく予定である。
3 (仮称)鎌倉歴史文化交流センターについて
市民が鎌倉の魅力や価値を共有することで、歴史的遺産を確実に守り、後世に伝えられる。子供たちが鎌倉の歴史や文化を学ぶ機会を充実させ、学ぶ場をつくることで、継承すべき歴史的・文化的価値が発信できる。
平成25年3月にセンチュリー財団より寄付を受けた土地約15,000㎡と3棟の建物に、学べて発信するセンターを平成29年4月開館予定である。建物の2棟はイギリス出身の著名な建築家であるノーマンフォスターがデザインした建物で、A棟B棟合計約400㎡の展示スペースとなる。 展示方法は検討中であるが、時代別に中世・近現代・考古とし、将来的には交流センターと博物館が一体になるセンターを考えている。
4 歴史的風致維持向上計画について
1) 推進にあたって
これまでのまちづくりの制度では、文化財周辺の環境保全や環境整備は困難であり、歴史的環境を復元・整備するには限界がある。そのような中で、新たに相続問題により歴史的建造物やまち並みの喪失や地域の伝統芸能の担い手不足が生じてきた。そこで歴史まちづくり法第5条を活用し、歴史的風致維持向上計画を作成し、主務大臣(文部・農林・国土)の認定を受けることにより、国の補助金を受け「歴史的遺産と共生するまちづくり」を推進することにした。
2) 歴史的風致とは
歴史上価値の高い建造物、歴史と伝統を反映した人々の活動、人々の活動と建造物が一体となった良好な市街地環境で構成される。
3) 鎌倉市における歴史的風致の構成
①社寺における祭礼・行事にみる歴史的風致(頼朝像・建長寺・円覚寺・鶴岡八幡宮など)
②海にまつわる伝統行事にみる歴史的風致(和賀江嶋・小動神社など)
③若宮大路周辺における商いにみる歴史的風致(三河屋本店・湯浅物産館など)
④周遊観光にはじまる「江ノ電」にみる歴史的風致
⑤別荘文化に由来する歴史的風致(鎌倉文学館・扇湖山荘・鎌倉彫など)
⑥歴史的遺産と一体となった山稜の保全活動にみる歴史的風致(やぐら・切通など)
4) 鎌倉市の取り組み
平成27年12月16日に国に申請し平成28年1月25日に認定を受けた。鎌倉市は50番目に認定を受け現在59団体が認定を受けている
平成28年度から補助金等を得ながら歴史的風致の維持向上に関する事業を実施する
5 日本遺産の認定について
1) 日本遺産とは
平成27年度に国内外へ魅力を発信し、地域活性化を図るとして、有形・無形の文化財を織り込み、地域の歴史的魅力や文化の特色をわかりやすく表現する「ストーリー」を日本遺産として文化庁が認定するとしてスタートした。
2) 日本遺産認定に向けた取組経過
平成27年11月社寺関係者から平成28年度認定に向け強い要請を受けた。鎌倉市歴史的風致維持向上計画の策定作業を通じてストーリーの目途がたったこと、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けたインバウンド対策等の環境整備の必要性から、平成27年12月に認定申請に向け取り組むことを決め、平成28年4月に認定された。
3) 認定されたストーリー
「いざ、鎌倉」~歴史と文化が描くモザイクのまちへ~
鎌倉は、源頼朝によって幕府が開かれた後、急速に都市整備が進められ、まちの中心は鶴岡八幡宮、山には切通し、山裾には禅宗寺院をはじめとする大寺院が造られた。
この地に活きた武士たちの歴史と哀愁を感じられる古都鎌倉は、江戸時代には信仰と遊山の対象として脚光を浴び、明治時代には多くの別荘が建てられたが、歴史的遺産と自然とが調和したまちの姿は守り伝えられてきた。
このような歴史を持つ古都鎌倉は、自然と一体になった中世以来の社寺が醸し出す雰囲気の中に、各時代の建築や土木遺構、鎌倉文士らが残した芸術文化、生業や行事など様々な要素がまるでモザイク画のように組み合わされた特別のまちになった。
4) 構成文化財について
寺社、史跡、別荘建築、商店、無形文化財、伝統工芸品など54件
4) 日本遺産事業について
平成28年6月28日協議会設立、情報発信・人材育成・普及啓発事業を行う
5) 日本遺産のメディア活用
平成28年11月13日 BS-TBS9:30~新番組「日本遺産」
鎌倉市 平成29年1月15日放映
平成28年11月15日フジテレビ24時間ニュース専門インターネットチャンネル「ホウドウキョク×GoGo」等で
6 おわりに
将来都市像「古都としての風格を保ちながら、生きる喜びと新しい魅力を創造するまち」をめざし、緑や景観を守り、歴史的遺産を守り、市民生活を守りながら、歴史的遺産と共生するまちづくりを進める。
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鎌倉でガイドをさせて頂くと、街の中は観光客が多く、道路状況等が気になります。しかし、街を少し奥に入ると静かな佇まいの残る小路や寺院があり、タイムスリップしたような不思議な気持ちにさせてくれます。今後もこのような街が残ったら・・・と思っております。
まちづくりの方々と市民の方達の努力を感じながらまちづくりの方々と市民の方達の努力を感じながら感謝!。本日はお忙しいなか有難うございました。


2016.09.30


平成28年9月10日(土)定例研修会が開催されました。
今回のテーマは『「-禅宗様建築の典型と現存鎌倉建築にみる変化―」と題して』、講師は鎌倉ガイド協会 松林宏さんです。
1.寺院建築史に於ける禅宗様建築
寺院建築は仏教の伝来とともに百済・唐様式の建築様式が伝えられた。その後、仏と人の距離の変化があり寺院建築も変化する。飛鳥時代(例、法隆寺)は金堂と塔を回廊が囲み、回廊の中は仏の場所であり、人は入ることはできず中門の外から礼拝する。平安初期(例、東寺灌頂院)では仏のいる正堂の前に礼堂が並んで建てられ(双堂)、礼堂から礼拝するようになる。平安末期(例、浄土寺本堂)では一つの建物内に、仏のいる内陣と礼拝する人のいる外陣を設けるようになった。礼拝スペースを確保するため、柱も取り除かれ仏と人はより近くなった。本日のテーマである禅宗建築はこの形式である。
894年遣唐使の中止により、中国からの情報が入らなくなると日本的な考え方のもとで建物は変化し、和様建築と称されるようになった。日本特有の気候、多雨や夏の高湿度に合うように野小屋や桔木が発明され、広く採用されるようになった。奈良時代には屋根の勾配は緩やかであったが、平安末期以降、鎌倉時代に改築された法隆寺東院夢殿に見られるよう、野小屋により屋根の勾配は急になり屋根寿命や雨漏り対策になり、桔木により軒の長さを増すことができるようになった。
次に、寺院建築史の大きな変化として、鎌倉時代初期に輸入された大仏様(例、東大寺南大門)と鎌倉時代中期に輸入された禅宗様(例、円覚寺舎利殿)が挙げられる。大仏様の東大寺南大門と禅宗様の円覚寺舎利殿を比較すると軒下の組物の組み方が違う。南大門は中国で学んだ重源が関与したもので、柱に穴を開け肘木を差し込む「挿肘木」に特徴がある。軒下は外側に組物があるが、内側にはなく、挿肘木の何本かに一本が中央柱まで通っている。大仏様、禅宗様は、柱に貫穴を掘り貫を通す方式であり、和様の長押より耐震性に優ることから、その後和様にも取り入れられるようになった。
室町時代以降には寺院・神社建築として、霊廟建築が建てられるようになり、鎌倉には建長寺仏殿に見られる禅宗仏殿風霊廟建築が現存している。
2.禅宗様建築の典型
1)建長寺の伽藍指図(鎌倉五山級建築)と現在の建物の比較
[仏殿] 伽藍指図 方五間裳階付 桁行27m×梁行25m 租師堂・土地堂を含め41m 
現存の類似建築例としては東福寺仏殿の41m
現在の仏殿 方三間裳階付 桁行12m×梁行12m 
[法堂] 伽藍指図 五間三間裳階付 桁行27m×梁行20m二階に千仏閣 
現存の同規模建築例としては相国寺の法堂 五間四間 桁行28m
   現在の法堂 方三間裳階付 桁行19m×梁行16m
[山門] 伽藍指図 五間三戸二階二重門 25m×12m 現存の同規模建築としては東福寺山門
   現在の山門 三間一戸二階二重門 桁行13m×梁行8m(五山級ではなく中規模の建築)
三門とは三解脱門のことであり、三つの通る門があることから本来は三戸である。
2)禅宗様建築の典型
 [円覚寺舎利殿] 中世禅宗様の典型であり、鎌倉唯一の国宝建築である。方三間裳階付であり、五山級の仏殿ではなく中規模の部類に入る。内部は化粧屋根裏から一間×一間の鏡天井にむかいせり上がっている。回廊の内側から見ると建物は横広で、屋根の二本の横の直線が強く見え、両端で美しい反り上りが見える。立面図は遠方正面から見たのと類似のもので、建物は縦長で全高に対し屋根の割合が大きく、両端の反り上りは目立たない。このことから、建築物は見る位置(距離)で印象が大きく異なることが分る。
[軸部]柱と梁と貫により構成され、貫は鎌倉時代初期の大仏様から使用され始めた。禅宗様でも柱に貫穴を掘り貫を通した。貫を用いることにより壁はなくても耐震性に優れる。一方、和様では長押で柱を挟みつけるようにし壁に厚い土壁を塗る(例、鶴岡八幡宮)。
頭貫の上には平らな台輪を入れる。これは禅宗様の特徴である詰組(柱と柱の間にも組物を置く)にする場合、台輪を入れることにより幅が広くなり、組物が安定するからである。また礎盤であるが、現在は装飾とみられているが、当初は自然石の礎石と柱の間に入れて軸高さを調整するためのものであった。
 貫を採用するにあたり、貫通孔をあける長ノミも輸入された。それまでの日本のノミは大きな木を縦方向に割るために使用されたもので、短いものしかなかった。当時の大工道具としては、それ以外に、墨付け・ノコギリ(木の葉ノコギリで齒のついている所がカーブしており木を直角に切る)・手斧・ヤリガンナ(削る道具)・曲尺・水バカリ(水平を測る)があった。
 [架構]舎利殿は桁行三間梁行三間一重裳階付、一つの建物の中に仏の内陣と礼拝場所(外陣)がある。礼拝場所の空間を広げるため大虹梁と大瓶束により二本の柱を省略している。主屋の柱上にのる三手先組物の内側には斜材の持送りで上の尾垂木尻を支え、尾垂木尻と天井の組物とは繋虹梁で連絡する。内部の空間は垂木や持送りが斜めに上がり、ドームのように中央を高め、壮大な感じを与える。
[垂木]軒の垂木の種類として、禅宗様の扇垂木、和様の平行(指)垂木、大仏様の隅扇垂木(中央が平行で角だけが扇)がある。平行垂木においては隅の垂木は側桁まで届いていず、隅木に取り付けるので隅木に負担がかかり、隅の軒が下がりやすい。これを防ぐため法隆寺金堂では隅木の支えとして龍の彫刻の柱があしらってあり、東福寺の山門にも柱が立っている。舎利殿の垂木は主屋が扇垂木で、ほぼすべてが扇のように開いているが、裳階は平行垂木である(裳階の軒長さは主屋に比べ短いので、扇垂木にする必要がない)。扇垂木は隅にある垂木であっても、側桁に乗っており軒を支えていて、隅木への負担はない利点がある。扇垂木の配置は当時の大工にとっては難しいものであり、技法として鎌倉割・等間割が伝わっている。鎌倉割は1.7寸勾配(曲尺で長手尺1尺行くと短手尺で1.7寸上げる)の補助線を引いて、その長さを垂木の本数で均等に割って垂木真とする。扇形に配置すると扇の要側(建物内)では垂木同士が干渉しあうので、間引いて一本おきに中心まで通す。
[組物] 鏡天井のまわりの組物は水平を支えることから前後左右差がない。内側も外側も二手先斗栱で同じように支えている。一方垂木を支える組物には尾垂木が使用されており、台輪を支点として母屋桁と軒先側は丸桁を天秤で支えるので内側と外側では形状が異なる。三手先斗栱では二つの尾垂木が使われ、尾垂木は大虹梁に平行(壁に直角)となっている。
[詰組] 組物を柱上だけでなく、柱と柱の間に設けるものを詰組という。舎利殿では組物を中央間では2組、脇間では1組設置している。組物の間隔を同じにすると、中央間と脇間の広さの比は3:2になり、時代が下がるとこの比の建物が多くなる。舎利殿ではこの比が4:3である。和様では柱間に間斗束や蟇股があしらわれているが、斗栱と異なり軒支えの機能は有していない。
 3.現存鎌倉建築にみる変化
[円覚寺仏殿] 昭和39年に完成した鉄筋コンクリート造りであるが、外観は1573年の図面「高階文書」を元に造られた禅宗様を引き継いでいる。県立博物館には模型がある。桁行五間×梁行五間一重裳階付き、高階文書の建物の桁行は27.4mに対し現在の仏殿は19.1mであり小さいが五山級の仏殿の典型様式である。
現在の仏殿内部は中央に三間×三間の鏡天井がある。高階文書の建物では前から二間目の所に高く太い柱列が並び、内陣五間×三間と外陣五間×二間に分けられており、鏡天井も三間×二間と三間×一間に分割されていた。また高階文書では内部に組物(尾垂木尻による母屋桁の支え)が存在するが、現在の仏殿では内部の組物が省略されている。礼拝空間上部には豪壮な大虹梁、大瓶束の架構が見える。現在の仏殿は前から二間半の所に柱を設け、前側二間半、後側一間半を大虹梁で繋ぎ、二間目の柱列を省略したため内陣と外陣の区分が明確ではないが、より広大な空間となった。堂々たる二重屋根の外観、ゆったりした高大な内部、豪壮な上部虹梁大瓶束架構は中世五山仏殿にふさわしい内容を持つ。
[建長寺仏殿] 寛永五年(1628)建築の禅宗仏殿風霊廟建築として優れている。方三間裳階付の形式は禅宗様仏殿の典型的なものであるが、和様も多く取り入れられている。内部の天井は格天井で中央後方は折り上げ格天井であり和様。組物は四手先で通常の禅宗様より一手多い。組物を中央間と脇間に二組ずつ設けているので、中央間と脇間の幅は等しいのも禅宗様と異なる。三間×三間の主屋全面に天井があり、禅宗様と違って柱頭より1.7mくらい下に長押をうち、そこから一面に格天井をはっている。禅宗様の典型では、頭貫・台輪上に組物がのり、その上に天井となる。また建物内の組物は天井により隠され見えないので、組物の建物内部側は省略されている。仏殿の桁行は12m、舎利殿は8mであるが、天井の高さは同じくらいの高さである。内部は和様の意匠となっていて、長押には彩色模様、天井には極彩色の花鳥が描かれていて桃山時代の風をよく表している。
[建長寺法堂] 文化十一年(1814)上棟11年後に完成、方三間の主屋に裳階を付けた方三間裳階付で、桁行19.1m×梁行16.4mで大建築物である。主屋の組物は二手先となっているが禅宗様のように尾垂木はない。詰組になっているが組物と組物の間には間斗束と二つの斗を置いている。天井を柱頭より低い位置にはっているのは仏殿の影響と考えられる。主屋全面が鏡天井で、建物の高さの半分より下に天井がある。内部に入ると柱の下には組物も見えない。禅宗様五山仏堂の量感をもちながら、定型的な禅宗様を打ち破り鎌倉大工の意匠を発揮している。
[山門の比較] 鎌倉には二階二重門が建長寺、円覚寺、光明寺、英勝寺にあり、桁行の規模で言えば、円覚寺は建長寺の8割、光明寺は建長寺より2割くらい大きい。建長寺・円覚寺は三間一戸二層二重門、光明寺は五間三戸二階二重門である。光明寺の山門形式五間三戸は五山級であるのに対し、建長寺の山門は三間一戸で中級であるが堂々として五山級の風格がある。これは屋根正面中央に大軒唐破風があること、木割が大きいこと、屋根が通常と異なり二階の方が大きく作られているため覆いかぶさるように見えることにある。
資料に付録として円覚寺舎利殿・建長寺仏殿・建長寺法堂・建長寺山門の大きさを比較するため、同縮尺の図面を入れておきました。同じ方三間でも大きさが違いますので参考にしてください
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「松林ガイドは優秀で信頼のおける方で、まるで手品師のように必要な資料を次々と出す」と班長の紹介がありましたが、9期生曰く「パソコンの神様」、その上に「日本建築大工技能士会研修会」という他分野で講師を勤めておられます。分かりにくい建築様をパソコンで作成した資料を使い、分かりやすく講義頂きました。本日は有難うございました。


2016.09.20


平成28年9月1日(木)本年度の夏季研修が催行されました。
行先は、鎌倉とゆかりの深い、埼玉県新座市にある「平林寺」と、川越市の「喜多院」及び「川越城本丸御殿」の拝観、そして「川越蔵造りの町」の散策です。当日は天候に恵まれ少々暑い中でしたが、参加者それぞれが地元のガイドの方々の説明に熱心に耳を傾け、多くの質問を交えながら有意義な一日を過ごすことが出来ました。
以下に、当日訪れた各研修地の由緒等につきご報告致します。

◎「平林寺」について
平林寺は、武蔵野の一角、野火止台地に約13万坪の境内地を有する禅寺で、正式には金鳳山平林禅寺(きんぽうざんへいりんぜんじ)といい、臨済宗妙心寺派の禅刹です。
南北朝時代の永和元年(1375)、武蔵国騎西郡渋江郷金重村(現さいたま市岩槻区)に、大田備州沙弥薀沢(おおたびしゅうしゃみうんたく)よって創建。開山は、当時鎌倉建長寺の住持(43世)だった石室善玖(せきしつぜんきゅう)禅師。天正18年(1590)5月、豊臣秀吉の岩槻城攻めの際、兵火によって伽藍の大半を焼失。天正19年(1591)、江戸入りした徳川家康は、鷹狩りで岩槻を訪れた際、焼け残った塔頭の聯芳軒(れんぽうけん)に休息し、軒主の乾叟(けんそう)から名僧石室禅師開山による平林寺の由緒を知り、伽藍再建のため朱印状を与えて、騎西郡内50石の土地を寄付。天正20年(1592)には、家康の手習い同輩であった駿河国臨済寺の鉄山宗鈍(てつざんそうどん)禅師を迎えて中興開山とした。続く雪堂禅師の代に山門・仏殿・衆寮等の伽藍を修造して旧観に復したが、これには当時平林寺の檀那であった大河内氏の外護に拠るところが大きかったと言われている。元和4年(1618)、大檀那である大河内秀綱が死去。平林寺が葬送の地となり、それ以降大河内氏の霊廟となった。秀綱の孫にあたる信綱が大河内家から長沢松平家へ養子に入り、のち別家して大河内松平家を興した事により、平林寺は大河内松平家の祖廟となった。
幕府の老中で川越藩主となった松平伊豆守信綱【徳川家光や家綱に仕え、知恵伊豆と称された】は、野火止の原野に平林寺を移し先祖供養の地にしようとしたが、寛文2年(1662)志半ばにして世を去った。父信綱から平林寺移建を託された子の輝綱は、喪の明けるのを待って移転を幕府に出願。幕府は当時、寺の新規建立を規制していたが、遺言を遵守しようとする輝綱の切なる願いを聞き入れた。寛文3年(1663)、輝綱は岩槻平林寺の伽藍及び墓石に至るまで野火止に移し、これに伴い、幕府は同5年7月に、岩槻の寺領に替えて新座郡西堀村と西屋敷の分、合わせて50石を野火止平林寺の寺領として安堵した。爾来、現在まで実に約640年の永きにわたり、禅の法灯を伝えているまさに「関東の名刹」です。昭和62年(1987)10月には、開山石室善玖禅師の600年遠諱が、23世糸原圓應(いとはらえんおう)老師により執り行われた。
境内には、江戸時代に建立された茅葺き屋根の総門、山門、仏殿、中門等が、埼玉県の指定有形文化財となっており、約三千坪の墓域に160基余ある大河内松平家一族歴代の墓石は、鎌倉・光明寺の内藤家の墓と共に全国有数の江戸大名家の廟所となっている。また、鎌倉の建長寺から分祀された半僧坊を祀る半僧坊感応殿があり4月に大祭が行われる。

◎「喜多院」について
天台宗川越大師喜多院の創建は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまで遡ると言う。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したと言われているが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、『無量寿寺』と名づけられた。その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となったと言う。正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山(せいやさん)…現在の山号」の勅額を下した。更に天文6年(1537)に北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぐが、慶長16年(1611) 11月徳川家康が川越を訪れたとき親しく接見している。そして天海の意見により寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、『仏蔵院北院』を『喜多院』と改めた。また四代徳川家綱のときには東照宮に二百石を下すなど寺勢をふるった。
寛永15年(1638) 1月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失したが、三代将軍徳川家光は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山【皇居】の別殿を移築して、客殿、書院等に当てた。冢光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためである。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年間で再建し、それらが国指定重要文化財として大切に保存されている。

◎「川越城本丸御殿」について
川越城は、扇谷上杉持朝(もちとも)が古河公方足利成氏(しげうじ)に対抗するため、長禄元年(1457)に家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて築城したもので、当初の規模は、後の本丸・二の丸を合わせた程度と推定されている。やがて川越城は、天文6年(1537)後北条氏の占拠するところとなったが、同15年(1546)川越城の奪回を図った上杉氏は後北条氏の奇襲【川越夜戦】に会い大敗して群馬に逃れた。川越城を掌中に収めた後北条氏は、周辺の旧上杉氏所領を直轄領に組み込むと共に、城代として譜代の重臣大道寺氏を配置した。天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家に攻められて落城した。やがて同年8月徳川家康が一族家臣を従えて関東に移るにおよび、重臣を重要な地に配して領国の安定を図った。川越には酒井重忠が一万石をもって封じられ、ここに川越藩の基礎が成立した。寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は川越城の大幅な拡張・整備を行い、近世城郭の形態を整えた。その規模は本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪、四つの櫓、十二の門より成り、総坪数は堀と土塁を除いて四万六千坪となった。
川越城本丸御殿の記録として「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)に川越城の本丸と二の丸とされる部分が描かれている。本丸御殿は正面に大きな門があり、9棟以上の建物が配されている。当時の本丸御殿は将軍が川越に来訪(鷹狩等)した際に滞泊するための「御成御殿」としての性格があり、城主の居所は二の丸の建物群であったとされる。家光没後は将軍家の川越来訪はほとんどなくなり、本丸御殿の御成御殿としての役目もなくなったためか、いつしか殿舎は解体され、空き地になったと考えられる。ところが、江戸時代末の弘化3年(1846)、城主の居所である二の丸御殿が火災によって焼失し、住居を失った城主は新たな御殿の建造を空き地であった本丸に求めた。こうして嘉永元年(1848)、時の城主松平斉典(なりつね)によって本丸に新たな御殿が建てられた。明治維新を迎えると、川越城は次第に解体されていったが、大広間及び玄関部分だけは入間郡役所、煙草工場、中学校校舎などに使用された。現存する建物は往時と比べ、敷地面積にして8分の1、建坪で6分の1の規模でしかないが、三間の大唐破風をはじめとする建物の各部分に武家の威容を感じ取ることができる。日本国内でも本丸御殿が現存している例はきわめてまれで、昭和42年(1967)に埼玉県の指定文化財になった。
家老詰所は、明治維新後に福岡村(現ふじみ野市)にある星野家に払い下げられていたものを、昭和63年(1988)に復元移築したものである。

◎川越蔵造りの町について
川越は明治26年(1893)の大火により町の3分の1を焼失した。川越商人は江戸時代以来、新河岸川の舟運などによる江戸との商いで富の蓄積があり、復興のための財力は十分にあったようで、同じ惨事を繰り返さないよう、建物そのものを防火建築にすることを考えた。蔵造りは類焼を防ぐための巧妙な耐火建築で、江戸の町家形式として発達したもので、今の東京では見ることのできない江戸の面影をとどめており、平成11年12月には国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。(文:木村賢司)


2016.07.27


平成28年7月9日(土) 定例研修会が催されました。
今回のテーマは『「―古絵図から知る 鎌倉―」と題して』
講師は鎌倉ガイド協会 岡田 厚さんです。
◇ 近世鎌倉の景観
○『新編鎌倉志』の概要
水戸光圀が『大日本史』の編纂に着手したのを契機に、歴史の空白期というべき中世の資料の手薄な事を痛感し、延宝元年(1673)に英勝寺などを訪ねた。翌年、編纂を命じた時の記録『鎌倉日記』をもとに、河井恒久らに編纂させたのが、『新編鎌倉志』である。鎌倉・江の島・逗子・葉山・横浜の金澤地域の社寺の由緒名所旧跡を調査させ10年の歳月をかけ完成させた。内容はまさに史上初の鎌倉散歩ガイドブックで、これが一寒村の鎌倉に鎌倉観光ブームを巻き起こした火付け役となった。これ以降、「鎌倉絵図」「鎌倉名所記」など、鎌倉の案内類が多くなる。
○近世鎌倉の景観(『新編鎌倉志』付図から)
有名寺社を網羅しているだけでなく、頼朝屋敷、公方屋敷、尊氏屋敷、佐介谷図など鎌倉時代だけではなく、南北朝時代、室町時代の事柄も豊富である。おそらく近世の人々が鎌倉に抱いたイメージは、これらの記憶が幾重にも積み重なった場所というものであろう。近世の人々にとっては、中世鎌倉より、前の時代の室町時代の方が身近であり、特に『太平記』が教養として重視されていた関係と思われる。
◇ 鎌倉の古絵図
1)相州鎌倉之図(17世紀、鶴岡八幡宮蔵)
鎌倉の中心部から江の島まで鳥瞰図風に描いた図で、遠くに富士山を望んでいる。徳川光圀が鶴岡八幡宮に参詣したおりに自写した図と伝えられている。注記の筆跡から後人の追記と認められ、明確な作成年は未詳。ほぼ中央に鶴岡八幡宮の境域を配し、頼朝が行った繁華な街つくりが見える。金沢専光寺・日蓮袈裟懸松・西行もとり松・あらいのゑんま等が描かれており、あらいのゑんまが元禄十六年(1703)11月22日の震災で倒壊しているので、それ以前に作成されたもので、慶安元年(1648)に近い時期とみられる。
2)鶴岡八幡宮(天正指図・享保十七年絵図・明治4年絵図)
○天正指図(天正十九年:1591)
八幡宮は災害や火災が10回近くあり、特に弘安三年(1280)の大火災以後、何度も堂宇は再興される。再興された堂宇は天正指図と配置に大差ないであろう。赤橋が反橋であり、赤橋の内に鳥居があった。若宮の回廊は本宮より大きい。あたらしと書いてある夷堂・大黒堂は再建予定であり、丸山稲荷や大塔はなく、千体堂がある。本地堂として薬師堂がある。天正指図の分析から中世の鶴岡八幡宮を明らかにできる。
○鶴岡八幡宮境内絵図(享保十七年:1732)
若宮の回廊はなく、若宮の区画が本宮より大きい。松尾剛次氏は、鶴岡八幡宮の境内は四つの部分から成り立っているとする。第一のゾーンが浜の鳥居から一の鳥居(準聖域化)、第二ゾーンが仁王門まで(放生会の神事)、第三ゾーンが仏教系建物、第四ゾーンが本宮の神殿中心(鎮護国家を祈るゾーン)。関東安泰を祈願する法会の大仁王会は本宮で営まれる。
○鶴岡八幡宮境内絵図(明治4年:1871)
明治3年5月に断行した神仏分離から一年後の鶴岡八幡宮を描いた絵図である。鶴岡八幡宮は鎌倉の廃寺の中でも創建から廃絶まで経過のわかる、もっとも華麗な経歴を持つ廃寺である。鶴岡八幡宮は明治初年まで「鶴岡八幡宮寺」といい、神主と僧侶が共住する神仏習合の寺院であった。社務(別当)を僧が務めた。十二坊の供僧は還俗し12名の総神主になり、昔から神主として存在していた大伴氏が1名の神主という例のない組織が生まれた。境内にあった仏教関係の諸堂を取り壊すのに要した日数はわずか十数日であった。仁王門は横須賀市浦賀の某寺に、仁王像は寿福寺に、家光寄進の鐘楼は破壊され鐘の拓本が金沢文庫と早稲田大学に残っている。実朝が奉納した一切経は四天王像とともに浅草寺に移動したが、四天王像は焼失。今、浅草寺には元版大藏経が残る。愛染明王は流転し今は五島美術館に収まった。明治3年5月付きで、境内にあった諸堂を取り除き終わった旨の届出書を筥崎博尹の名で県庁に提出され、鶴岡八幡宮寺は廃絶した。
3)善宝寺寺地図(明応六年:1497)-中世鎌倉の商業地域 
鎌倉幕府は建長3年(1251)、文永二年(1265)に商業地域を限定する法を出した。その町屋御免地区に米町があり善宝寺寺地図に描かれている。延命寺橋、本覚寺の法華堂、置石(段葛)が描かれ、善宝寺(現、教恩寺)境内では銅銭が発掘されている。旧鎌倉町域には天王社・祇園社といった牛頭天王を祀る神社が多く、これらの神社の分布と中世町屋の展開した場所が重なる。このことから、鎌倉祇園会が都市民の祭礼であったことを示している。その商業地域(町屋)は、ほぼ明治15年の迅速測量図と重なり、それはまた江戸時代の17世紀後半の景観とほぼ一致する。
4)建長寺(伽藍指図・境内絵図) 
○ 建長寺伽藍指図写(元弘元年:1331)
京都東福寺が全山焼失した折に、その旧造営の参考にするため東福寺大工の越後がこの指図を描いた。この原本を江戸時代に建長寺の僧侶が密かに借用し模写したもの。禅宗寺院の建築史はこの建長寺建立に始まり、以降の禅寺はこれを基本に建てられた。総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に並び、山門と仏殿との間には回廊があり仏殿両脇には祖師堂・土地堂がある。禅宗では仏殿より法堂の方が重要であり、ここでは公案問答が行われた。七堂人体表相でいうと、頭が法堂、心が仏殿、三門が隠、右足が西浄、左足が浴室、右手が大徹堂、左手が庫院となる。
○ 建長寺境内絵図(延宝六年:1678)
この絵図は、かつて四十九の塔頭があったが大半が滅亡し、その現状を嘆いた光圀が、画工に命じて作らせ、再興時の手本として建長寺に寄進したもの。絵図からは、火災消滅塔・大覚禅師の座禅窟・ワメキ十王があり、「地獄谷埋残」の記述から、かつて地獄谷という処刑場であったことが分かる。それ故に刑死した人々の弔いの為に、地獄に落ちた人をも救うという地蔵が本尊となった。境域は広く、この谷を埋める伽藍中枢の建物をはじめ、塔頭及び屋舎等の有様は壮観である。塔頭の成立は、鎌倉時代は12、鎌倉時代以降の14世紀には20、15世紀には17の塔頭が成立した。中世後期が盛期であった。建長寺建立時には、心平寺跡の地蔵堂のみが残り、現在は三渓園にあり、天樹院(慶安四年:1651)といわれる。尊氏が夢窓疎石の勧めで諸国に安国寺と利生塔が建てられたが、安国寺は四十九院外にあった。門前には民家が軒を並べ、一大門前町が存在していたと考えられる。中国からの渡来僧を塔所とする塔頭が多い。22世までの内、渡来僧13人で中国文明のセンターとして、得宗は文明の担い手といえる渡来僧を囲い込み、独占した。
5)円覚寺(境内図・門前町図)
○ 円覚寺境内絵図(元亨三年:1323~建武二年:1335)
境内図には応安七年(1374)に焼失して今は無い法堂が描かれており、また正続院が描かれていないことから、建武政権の時期に作成されたもので、鎌倉幕府滅亡直後の円覚寺近辺を知る貴重な資料である。花押は上杉重能であることから、寄進者は足利直義と思われる。仏牙舎利は王の権力を象徴するものとして、源実朝建立の大慈寺から北条貞時が円覚寺に、そして足利義満の相国寺に移される。円覚寺第15世夢窓疎石の塔所黄梅院(文和三年開創:1354)には、かつて時宗夫人の覚山尼が追善の為に建立した華厳塔があり、今でも礎石が残る。応安元年(1368)には足利義詮の遺骨が分骨され足利氏の菩提所としての性格を帯びていた。山号は師の法衣を継ぐ意味の「伝衣山」という。
  ○ 山之内円覚寺門前町図(慶安四年:1651~貞享二年:1685)
谷間をぬう山内道を中央に配し、家並みや所領の区域等を描写する。現在の交番と消防小屋の前に人の出入りを監視する門があり、鉤手状に石壁が残る。幕末には二本の柱に横木を渡す程度の馬柵(ませ)に変わった。寺に用のないものは牛馬道(めどう・うまみち)へ迂回して通行した。絵図の十王堂にあった十王像は今は円覚寺・桂昌庵にある。

6)極楽寺境内図(元亨三年:1323、明暦三年:1657)
○ 元亨三年(1323)の作成というが、明暦三年(1657)と比較すると、文字が同筆であり、同一人によって一緒に書かれたもの。記録や伝承をもとに極楽寺の鎌倉時代末期の盛時の姿を偲んで江戸時代に作成されたと考えられる。稲村小学校敷地を発掘調査したところ、方丈華厳院・講堂の遺構が絵図と一致した。周りの谷々に塔頭(末寺)が展開し、建物だけで600を数えたという。松尾剛次氏は寺院の建物配置に律宗教団の思想と活動が体現されているという。それによると塀と山によって限られたAゾーンは関東の鎮護国家を祈る関東祈願、Aを取り巻くBゾーンは雨請池・戒壇院・尼寺、Cゾーンは下層民衆の救済に関わる部分とに分けられ、高さに注目するとA、B、Cの順に低くなっている。これらの叡尊教団の癩患者を中心とする救済活動は文殊菩薩信仰に基づき、その内容は①授戒、②施行(せぎょう)、③治療の三に分けられていた。病人、被差別者、女人、死者などの人々が忌み嫌う「穢れ」を恐れない慈善救済活動は極めて注目すべきことであり、特に癩者に直接接触した忍性はマザー・テレサに匹敵する存在であった。
○ 明暦三年(1657)
元亨三年(1323)の境内絵図を描いた時点での極楽寺の容子を示している。この明暦三年(1657)の24年前に極楽寺を訪ねた沢庵和尚は『鎌倉巡礼記』の中で、「…極楽寺のかかる零落を見て、地獄門の栄える事、そらに知られけり」と記している。
7)飯島和賀江島絵図(明和元年:1764)
  小坪村と材木座村の境界設定、和賀江島がどちらの村に帰属するかの争いにまつわり小坪村で明和元年頃に作成された。一度、和賀江島の小坪側の西南口を開口されたが、材木座村は坂ノ下住民を伴いこれを埋めてしまった。役所に願い出た結果、3月~9月(7ケ月間)西南口を塞ぎ、10月~翌2月(5ケ月間)西南口を開くことで決着した。この絵図に描かれた道が今に残る。
8)浄光明寺敷地絵図(元弘三年:1334~建武二年:1335)
 この絵図は『新編鎌倉志』等に記載されていて、その存在は古くから知られていたが、長く行方不明であった。平成12年(2000)に発見され、浄光明寺に戻った。幕府滅亡後の寺領安堵に際して、跡地の寺領への組み入れを所望したもの。この絵図からは詳細な伽藍配置、建築様式、武家屋敷の位置、規模が描かれ、鎌倉内部の地割を伝える唯一の資料である。
9)称名寺大界結界絵図(元亨三年:1323)
 結界作法に因んで描かれた称名寺の伽藍配置図である。池の西側には阿弥陀堂、新宮といった念仏系の僧が居た称名寺を中心としたゾーン、中央の南大門、中島、金堂、講堂に至る線沿いに方丈、両界堂、護摩堂といった律僧たちの仏教儀礼が行われるゾーン、東側には東司、浴室、無常院、庫裏といった、律僧の俗的生活ゾーン、結界の外に骨堂、顕時御廟といった墓所の四つのゾーンに分けられるという。
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研修の冒頭 「盛りだくさんが私の特色、各自絵図と説明文により勉強してください」と宿題を頂き、生徒になったような気分でした。何枚かの絵図を比較し、古文書を読み、現地を確認している様子が彷彿とさせられる講義でした。本日は有難うございました。


2012.09.01

「古都鎌倉史跡めぐり2017/1月実施分から2017/3月実施分までを掲載しています。詳細は「毎月恒例の古都鎌倉史跡めぐり」のページをご覧下さい。


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