今小路


今小路(いまこうじ)は今大路(いまおおじ)とも云います。若宮大路の東側に物流の幹線道路小町大路がありますが、 この道路に対応した西側の路は無いのかと考え、鎌倉駅の東口駅前広場に出て辺りを見ますと、左手の赤い鳥居の下を大勢の通行人で賑わう道路があります。 この道は観光客にもよく知られている「小町通」で、若しかしてこの通りが昔からある西の道かと考えました。
そこで、先に紹介した明治15年測量の地図を開いてみると、そこには道はなく畑地と畦道が描いてあるだけで、 とても鎌倉時代から続く道ではありません。

鎌倉古絵図 (クリックすると大サイズ表示)
江戸時代絵図

江戸時代の地誌「新編鎌倉志」を調べてみますと、今小路の項に「今小路は、寿福寺の前に石橋あり、勝橋と云う。 鎌倉十橋の一なり。ここより南を今小路と言う。巽荒神の辺より南を長谷までの間は、長谷小路と言うなり」 とあります。

鎌倉市発行の鎌倉市史、総説編第十一章「鎌倉の市街」にある「今大路」の項を見ますと、次のような記述があります。

「鎌倉の道路、南北の路は若宮大路とその東に並行する小町大路がある。これでは若宮大路の西に並行する道が欲しい。 この路が今大路であろう」と述べています。
更に補足として「今大路については(鎌倉志)には今小路として、寿福寺の前から南を云い、巽荒神の辺から南、 長谷までの間は長谷小路というとあり、(攬勝考)はこれを踏襲している。(風土記稿)は今小路については少しも触れていないし、 長谷小路についても大町村の条と長谷村の条とでは違ったことを述べている。 実は「吾妻鏡」には今小路の名は見えてこないのであり、「快元僧都記」(かいげんそうづき)の天文八年(1539)十月の条に、 去月二十八日に扇ケ谷の今小路の番匠主計助が荒神の宮を修復したと見えているだけである。 これで今小路を扇ケ谷とするのであり、江戸時代の扇ケ谷村は巽荒神のところを長谷村としたので、 (鎌倉志)以下が巽荒神以北を以北を今小路、以南を長谷小路としたものと思う。」 と記述しています。
更に続けて「大路・小路ということは地域の名ではなく、道路そのものの名であることから、 今小路を巽荒神の北だけだとすることは全く意味がないといわなければならない」と述べています。

私の手元にある江戸時代の「鎌倉古絵図」十六葉のうち、標準的な古絵図(板元 丸屋富蔵・画師谷金川 東京美術刊)の裁許橋付近を拡大して見ますと、 図の大仏像の右脇に「たつみ荒神」の社の脇に「今小路」と「裁許橋」及び「はせ小路」の文字が見えます。 (鎌倉古絵図をクリックすると拡大図が見られます)
この絵図からも今小路は裁許橋までとなっており、その先は長谷小路と記入されています。 江戸時代は村落の境界線が佐助川に有ったのかも知れません。

古代の郡衛の所在地があった!
裁許橋に接して御成小学校があります、ここの校舎改築に際し発掘調査が行われました。調査報告にりますと、 鎌倉郡の郡衛(ぐんえ:郡役所)中心部の遺構が発見されました。遺構の一つから「天平五年(733)の木簡」が発掘された事から、 鎌倉は古代の郡の中心的地域であったと推定されると報告されています。
また、今大路の北の勝橋の隣にある寿福寺境内の付近は、昔より源氏に所縁のあるところと云われています。 例えば、治承4年10月7日に、頼朝が鎌倉入りに際し、真っ先に鶴岡八幡宮に参拝し、次いで亀ケ谷の旧跡を訪れました。 この地は、頼朝の父義朝の館があったので、この地に屋敷を建立しようとしたとの事です。(吾妻鏡)
寿福寺の裏に接する源氏山は、後三年の役に際して東国に下った八幡太郎義家が山頂に白旗を立てたとの伝説により、 源氏山付近を旗立山又は御旗山と呼ばれたそうです。この様に寿福寺付近は昔より源氏には大変に所縁のあるところであります。(鎌倉志)

古東海道等多くの路と接続している

亀ケ谷坂
亀ケ谷坂
鎌倉は昔から古東海道が西から東に下る際の通り道でありました。古東海道の一つは藤沢方面より稲村ヶ崎の崖下を渡り、 鎌倉の海岸付近を通り、飯島岬の北の小坪坂を通る道がありました。 さらに藤沢及び戸塚方面より仮粧坂(けわいざか)を通り鎌倉に入る道と、 亀ケ谷坂(かめがやつざか)を抜ける道と合流して亀ケ谷に入り、寿福寺前へと進みます。 この寿福寺付近は、頼朝の父親の義朝が館を構えていたなど古くより源氏所縁の地でもあります。

この寿福寺前より東に進み、窟小路を通り八幡宮赤橋前を東西に走る横大路を東進すると、突き当たりに宝戒寺があります。
宝戒寺前にて小町大路に接続し、ここより小町大路を南下しますと小町・大町・材木座を経て相模湾に到達し、 そこには国内は勿論遠くは大陸諸国と交易している和賀江島の港に到着します。

この小町大路を北上し筋違橋にて六浦路にて接続し、荏柄天神から杉本観音寺を経て十二所方面に向かい、 朝比奈切通(あさひなきりどうし)を通り六浦方面へと通じています。更に走水付近より東京湾を横断して房総半島に渡り、 上総より常陸を通り東北方面へと伸びていたと云われている

この様に寿福寺付近を中心にして、昔から多くの路が鎌倉の内外部を通じていました。 さらに寿福寺前より今大路を南下し巽荒神の前を通り、問注所の付近に達します。 問注所より裁許橋を渡り更に進みますと六地蔵前に到達します。
六地蔵前よりは大町大路に入り、東に進み下馬を通り名越切通(なごえきりどうし)より三浦方面へ進む道と、 六地蔵より長谷大路に出て笹目の塔の辻より由比ヶ浜方面に進み極楽寺切通(ごくらくじきりとおし)を越えるか、 または稲村ヶ崎を通り京都方面に進む路などがあります。さらに長谷大路を西に進むと長谷観音堂の前に達し、 ここより長谷大仏を経て大仏坂切通(だいぶつざかきりどうし)を通り深沢から藤沢へと通じています。

今小路(今大路)に沿って歩く

明治15年測量図に基ずく鎌倉
明治15年測量図
扇ケ谷と亀ケ谷
今小路の付近は扇ケ谷と呼ばれています。しかし吾妻鏡には扇ケ谷の地名は見当たりません。 往時はこの付近は亀ケ谷と呼ばれていました。
吾妻鏡に亀ケ谷の名が最初に出てきますのは「治承4年(1180)10月7日 鎌倉に入った頼朝は 先ず鶴岡八幡宮を遥拝し、 次に義朝の亀ケ谷の御旧跡に君臨する云々」であります。

扇ケ谷の地名については「この辺は全て亀ケ谷と唱え、扇ケ谷は一所の小名なり、されど管領上杉定正ここに住し、 世に扇谷殿と称せられしより亀ケ谷の唱えは漸く廃れ、専ら扇ケ谷と称し習えるなり」(新編相模国風土記稿)とあります様に、 昔は亀ケ谷と云われていたが、今では亀ケ谷の名は 亀ケ谷坂とか寿福寺の山号亀谷山などにその名を残すのみとなりました。

今小路の道を南の方面に向かって歩いてみます。最初は尼寺の英勝寺から案内します。







英勝寺
英勝寺
英勝寺

浄土宗で鎌倉における唯一の尼寺で山号を東光山と称します。

この寺の土地は、元大田道灌の屋敷跡と云われています。道灌の子孫で徳川家康の側室となりましたお勝の局が、 水戸家頼房の義母となりこの地を賜りました。この地に小庵をかまえ、水戸家頼房の娘小良姫を迎え英勝寺を建立しました。(新編相模国風土記稿)

お勝の局が寿福寺の前に橋を寄付したことから、この橋を勝橋と云われるようになり、鎌倉十橋の一つであります。


寿福寺
寿福寺
寿福寺
亀谷金剛寿福禅寺と号し、鎌倉五山の第三であります。頼朝の妻政子の願いにより亀ケ谷に伽藍を建立しました、 「正治2年(1200)2月8日御台所の願いとして伽藍を建立せんがために、亀ケ谷の地を調査した。この地は義朝の御旧跡なり。 その恩に報じるがために、岡崎兼実が兼ねてより草庵を建たものなり。」(吾妻鏡)
同じく13日の条には「亀ケ谷の地を栄西に寄付せらる」(吾妻鏡)とあります。 その後、政子及び三代将軍実朝はしばしば寿福寺を訪れ栄西の教えを受けたそうです。

また、栄西は宋から帰るときに茶の木を持ち帰り育てていました、 将軍実朝が二日酔いにて苦しんだ際に良薬と称して茶を差し出したそうです。 「健保2年(1214)2月4日将軍二日酔いにて苦しまれ、栄西この事を聞き寺より茶を勧め、 さらに一巻の書を献じた」(吾妻鏡)。この書は「喫茶養生記」と呼ばれ、日本の茶の始祖で、 国重要文化財に指定されています。(講談社学術文庫に全訳書あり)


巽荒神
巽荒神社
巽荒神社
寿福寺の南へ百メートル程進むと、左に神社が有ります。この社が巽荒神(たつみこうじん)です。 「巽荒神は、今小路の南、寿福寺の巽にあり。故に名がつく、寿福寺の鎮守なり。」(鎌倉志)とあります。

巽荒神社から更に南に向かいますと、市役所前の交差点に達します。信号を渡り南に進みますと、 右手に立派な門構えの御成小学校があります。この地は昔の御用邸の跡地で、払い下げを受けて小学校としました。 門に掲げられています門札は高浜虚子の書により彫られた物だそうです。塀にそって進みますと信号のあるT字路に達します、 その角に碑が建っているのが見えます、これが問注所旧跡の碑です。


問注所跡
問注所跡碑
問注所跡碑
頼朝は鎌倉に幕府を開くにあたり、政務・財政事務をつかさどる公文所(くもんじょ)後の政所(まんどころ)、 御家人の武士達を統括を行う侍所(さむらいどころ)、裁判事務を行う問注所(もんちゅうしょ)の三大行政機関を設けて幕府の業務を執行しました。

碑に「元暦元年(1184)源頼朝は大倉幕府の建物の東西の廂を訴訟裁判の場とし、これを問注所と称した。 この問注所に大勢の人々が集まり騒々しい事から、正治元年(1199)に頼家はこの地に問注所を移した、 ここが問注所の遺跡である。」と問注所の由来を説明しています。

碑の、「問注所に大勢の人々が集まり騒々しい事から云々」に関しまして、次のような事件がありました。 「建久3年(1192)11月25日 熊谷直実と伯父の久下直光とが対決し、直実が憤慨に耐えきれず髷を切て逐電した。 この事があってより幕府内での裁判は中止され、その後は名越の三善康信の屋敷内にて行われた。](吾妻鏡)
「正治元年(1199)4月1日問注所を新たに建て、三善義信の屋敷より移転した」(吾妻鏡)とあります。

問注所跡の碑より、御成小学校の塀に沿って進むと、敷地の外れに佐助川が流れています。この川に橋が架かっています、 この橋が裁許橋です。

裁許橋
裁許橋・親柱
裁許橋・親柱
昔、問注所にて判決を受けた罪人が刑場に引かれる際に渡った事から、裁許橋の名が付いたと云われています。
詳細は鎌倉十橋を参照してください。