鎌倉の路


鎌倉中心の全景 源 頼朝が鎌倉入りしたのは、今から約800年以上前の治承4年(1180)10月6日の事です。

その翌日の7日には、源 頼義が建立し、源 義家が修理をした「鶴岡八幡宮」(現在材木座一丁目にある元八幡宮)を参拝し、 次に父親の義朝が住んでいた亀ヶ谷(現在のの扇ケ谷)の館跡(寿福寺の場所)を尋ねました。

その六日後の10月12日には八幡宮を材木座より小林郷の北山(現在の鶴岡八幡宮のある場所)に遷し、 この新たに建立した鶴岡八幡宮を中心として鎌倉の都市計画に着手しました。頼朝は、先ず各々の町に名前を付け、 次に道の整備を進めました。

この道路整備の始まりは、「吾妻鏡」の寿永元年(1182)3月15日の条に「鶴岡の社頭より 由比ヶ浜の海岸に至る迄、 道の曲がりを直して参道を造成した」とあります。

頼朝は日頃より道路整備が大変にお好きの様で、たまたま妻政子が懐妊した事から、 安産祈願をかねて道路の建設に着手しました。「頼朝は先頭にたって道路の建設工事を指示し、 舅の北条時政等の御家人が土石を運ぶという熱の入れようである。」と述べています。 頼朝の道路整備好きの為か、その後もしばしば道路整備の記事が吾妻鏡に見られます。 例えば文治3年(1187)3月10日条に「梶原景時が讒言の罪にて鎌倉中の道路を作るよう命ぜられた」と有ります。 また、文治4年(1188)5月20日条に「八田知家の郎党が夜番を怠けたので、 知家に鎌倉中の道路を作らせた」と頼朝も中々味な罰を与えています。

頼朝は鎌倉の街の都市計画を行い、道路の新設・改良に力を注いだ結果、 鎌倉の町は大いに栄え大勢の人々が集まり賑わったといわれています。
ここに、頼朝が入る以前の鎌倉の様子を伝える吾妻鏡の条を紹介します。大倉郷に建築中の頼朝の新邸が落成し、 移転の儀式が行われた模様を伝える「吾妻鏡」の記録に「鎌倉はもとより辺鄙なところで、 漁師や田舎人の外は住むものもない村です。このような辺鄙な町をば、 頼朝が道を直して町に名前をつけるなどの仕事を行いました。その結果鎌倉の町は大変に賑わい、 家々は瓦を並べ門扉は軒を軋りました・・・」と、述べています。 その外に、鎌倉の賑わいの模様を伝えるものとしては中世の紀行文の「とはずがたり」に次のように描いております。 「夜が明けて鎌倉に入った、極楽寺を訪れてみると、僧呂の振舞いが都と同じなのを懐かしく思った。 仮粧坂(けわいざか)という山を越えて、鎌倉の町の方を見ると、東山にて京を見るのとは大分違い、 家々が階段状に重なって、袋の中にものを入れたようにぎっしりとつまって住んでいる。・・・」と、 当時の鎌倉の住宅事情をいきいきと描写しています。 また、鎌倉時代に於ける海岸の様子につきましては、同じく中世の紀行文の「海道記」に次の様に描いております。 「申(さる)の斜めに、由比ヶ浜に落ち着いた。暫く休息して、辺りを見ると、数百艘の船が綱で繋がれて、 大津の浦の様子に似ている、千万軒の家が軒を並べている様子は大津の渡しとよく似ている。 御霊神社(ごりょうじんじゃ:俗に権五郎神社と呼ばれ仮面行列の祭りが有名)の鳥居の前で日が暮れた後に、 若宮大路から泊まる宿に着いた。・・・」と、由比ヶ浜に係留されている、 各地から物資を運搬してきた船の賑わいを描写しています。 北条泰時の時代になりますと、鎌倉は外部との交通が発展し、陸路では丘陵を開いた切通の「鎌倉七口」の整備が進み、 海路では飯島海岸(材木座海岸)の和賀江に港湾を建設し、海外との交易も行われるようになりました。

鎌倉時代の路を探る
1.江戸時代の絵図

江戸時代の観光絵図 このように鶴岡八幡宮を中心に若宮大路を建設する事により、鎌倉の都市計画が始まりました。 当時の鎌倉の都市計画及び道路の状態を調べる目的で、鎌倉時代の古絵図として鎌倉国宝館発行の「鎌倉の古絵図」を調べて見ましたところ、 主として社寺を中心とした部分図の範囲にて、鎌倉全体の都市計画と道路の状態を知ることは出来ませんでした。

江戸時代の地誌の「新編鎌倉志」・「鎌倉攬勝考」及び「新編相模国風土記稿」等の挿絵に挑戦しましたが、 古絵図の場合と同じように社寺仏閣の境内図の範囲しか知ることが出来ませんでした。

次に、江戸時代に多く発行されました名所案内図は如何と探してみました。 ここに示す絵図は「神奈川県立歴史博物館」にて求めたもので、 「元禄八乙亥年(1695)八月吉日/斉藤氏富田屋庄兵衛板行」と書かれております。 絵図の上の方に鶴岡八幡宮があり、そこから由比ヶ浜海岸に向かって若宮大路が真直ぐに通り、 一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居が描かれています。

北から順に、三の鳥居附近にて若宮大路に直交する横大路、南下して二の鳥居附近にて直交して小町大路に達する路、西の長谷大仏及び長谷観音堂から由比ヶ浜通りを東に進み、下馬附近にて若宮大路と交差し、大町を通り名越に通じる大町大路があります。

又若宮大路の東側を南北に走る小町大路が、朝比奈切通から六浦路と宝戒寺前にて接続し、 更に南下して和賀江島の築港へと通じている。この路に沿って南北に流れる滑川が、橋により路と交差しながら由比ヶ浜にて海に注いでいます。 このように江戸時代に描かれた観光用の絵図でも、当時の路の概要は想像できますが、 距離感や細部の様子などは今一つわかり難いところがあります。


2.明治15年測量の参謀本部陸地測量部地図
明治15年測量の鎌倉地図 そこで色々と調べていましたところ、明治の初めに近代土木技術にて測量された鎌倉附近の地図を入手しました。 明治初期の主な地図と測量事業を調べて見ますと、明治4年に兵部参謀局間諜隊が発足し、 明治21年には陸軍参謀本部は全国を二万分の一の地図にて覆う計画をしました。

今回入手しました地図は「品川及び横浜近傍第七号洲崎村・雪の下村(二万分の一地図)の地図で、 明治15年測量・16年に製版・同年9月28日出版の参謀本部陸軍部測量局の極めて珍しい鎌倉附近の地図です。

近代土木技術により明治15年に測量した、鎌倉附近の二万分の一の地図を見れば分かるように、 町の中には横須賀線の鉄道が敷設されていません。また、道路も江戸時代の状態を保持したものと推定されます。

地図の中央を、鶴岡八幡宮の社頭から海岸線に向かい幅広い幅員の道路が一直線に伸びています。 この道は吾妻鏡に云うところの頼朝が計画し造成した若宮大路であります。

この道に平行して東側を一本の道が見られます。八幡宮の東南の角にある宝戒寺の前より、 南に進み本覚寺の門前にて滑川を橋で渡り、更に南下して大町大路を越えて材木座方面に至る道は小町大路と推定されます。

同じく若宮大路の西側の寿福寺前より、六地蔵に抜ける道は今大路と考えられます、 六地蔵前から笹目の間は長谷大路を通り、笹目より長谷大路と分かれ由比ヶ浜に出て、 極楽寺切通に抜ける道とに分かれています。

常盤方面より大仏切通を通り、長谷観音前にて東に向かって長谷大路となり、笹目から六地蔵にて今大路と交差する長谷大路。 更に東に伸びて下馬四つ角にて若宮大路と交差し、滑川を渡り大町に入り、名越切通へと伸びている大町大路があります。

八幡宮西から寿福寺前に出て仮粧坂方面より源氏山を登り梶原方面に出て藤沢方面に繋がる道。 途中の扇ケ谷附近にて岩舟地蔵の角を北に曲がり亀ヶ谷坂切通を上って山ノ内から戸塚方面に通じる道。 同じく鶴岡八幡宮西参道より巨福呂坂を通って山ノ内に通じる道。

小町大路は宝戒寺前にて接続し、筋違橋を通りて岐れ道にて東に進み、杉本観音から浄明寺を通り十二所(じゅうにそ)に進み、 朝比奈切通を抜けて六浦方面へと通じる六浦路などがあり、想像を逞しくするにつれて楽しくなるような地図です。

以上のようなことから、明治初期の測量図は江戸時代は勿論のこと、鎌倉時代の路を歩くには大変参考になると考えられます。 この明治初期の測量図を基に鎌倉時代の路と都市計画を検証して見る事は有効であると考えて、 考察を行うことに挑戦してみました。