六浦路


筋違橋鎌倉海岸にある材木座の築港和賀江島より,小町大路を北上して宝戒寺(ほうかいじ)前まで進むと、鶴岡八幡宮の前を東西に走る横大路(よこおおじ)と交差します。更に小町大路を進めると武家政治の中心で商業の町でもある筋違橋(すじかえばし)付近に到達します。
この付近より道が大きく右に曲がり、東に向って延びています、この道が現在の金沢街道と呼ばれ、更に東へと延びて朝比奈切通を通り過ぎて六浦方面へと達しています。  この金沢街道を、鎌倉時代には六浦路(むつうらみち)と呼び、鎌倉の町から東方へのびた物流の大幹線道路でありました。

鎌倉市史「総説編」「鎌倉の市街」にある「六浦路」の項に、次のように述べています。  「東から鎌倉に入る主要な道路は云うまでもなく旧東海道、すなわち名越坂路である。この名越坂のほかに相当重要なものが一つある。それは六浦に通ずる道である。六浦は北条氏の一族金沢氏の所領であり、安房・上総・下総などの物資はここに集まり、ここから鎌倉に運ばれたらしい(一部省略)。この路は鶴岡八幡宮の唐門(今の鳥居)前を起点としたものらしい。そしてこの道路では大倉辻と筋違橋とに商業地域ができた。」

鎌倉時代には、丘陵を切開いて造成した路を切通(きりとおし)と呼んでいます。大仏切通・仮粧坂・亀ケ谷坂・巨福呂坂・朝比奈切通・極楽寺切通・名越切通の七つの切通があり、この切通を「鎌倉七口」と称しています。これら七口の切通に関して、その計画及び工事の詳細な記録等は殆んどありません。
然し、朝比奈切通については、和田義盛の三男の朝比奈義秀(あさひなよしひで)が一夜に切通を切開いたとの伝説は有名ですが、その他に朝比奈切通に関しては吾妻鏡に次のような詳細な記録が有ります。

仁治元年(1240)11月30日の条に「幕府の会議にて、鎌倉と六浦の中間に、初めて道路を建設することの審議があり。現地測量の実施やら各御家人への分担などの具体的な問題をも決めた。然し、工事の着工に関しては占いの結果日柄が良くないので、翌年の春以降に着工を延ばした。現場の責任者には中野左衛門尉時景を任命した」とあります。

翌年の仁治2年(1240)4月5日の条に「昨年の冬の会議において審議した、新しい路の建設である六浦の道路工事に着工した。この工事は大土木工事であったので、泰時が自ら現場に出むき直接工事の指揮を執った。大勢の人々が集まり作業を進めたが、難工事の為に思うように工事は進捗せず苦労をした。泰時は自分の乗ってきた馬を使用して土石の運搬にあてたので、この様子を見た工事関係者の人々及び作業員たちは、作業を一生懸命に進めた。」とあります。この工事の竣工の明確な記録は有りませんが、5月中には完工したと言われています。

鎌倉幕府が六浦路と朝比奈切通を必要とした理由の一つに、材木座海岸に建設した和賀江島の湊は、海が荒れたときには船の繋留が大変に困難であったと云われています。例えば吾妻鏡の弘長3年(1263)8月14日の条に「南風が激しく、雨足も激しく降る。由比の浜に着岸した船数十艘が破損し沈没した。」とあります。同じく27日の条に「夜になってから由比ヶ浜の船が波により沈没し、死人が汀に打ち寄せられた。九州からの運搬船61艘が伊豆の海にて波に漂っていた云々。」と和賀江湊は波浪に大分悩まされていた状況が記録されています。
この様なことから推測しますと、和賀江島の湊における船の荷役は、海が荒れると大変に困難であったようです。対策としては、船を波の静かな東京湾にある六浦の湊に廻して荷役するようにし、六浦湊より陸路にて朝比奈の切通を経て六浦路を通り、鎌倉への物資輸送が行われるようになったと推測されます。

その要因として、六浦付近は鎌倉時代から製塩場が開かれていました。明治初年の地図を見ますと、当時は六浦には多くの塩田が見られます。このことからも、この地域にては製塩事業が盛んな事が窺い知れます。
この塩の輸送の為にも六浦の路が必要であったようで、新編鎌倉志の塩嘗地蔵(しおなめじぞう)の項に「塩嘗地蔵は、路の端、堂内の中にある石像のことです。六浦の塩売りが鎌倉に出るごとに商いの初穂として、塩をこの石地蔵に供えたことからこの名が付いたと云われている云々」と鎌倉への塩の輸送路として必要であったと述べています。その外には戦略上の路としての重要な役割があり、鎌倉の東口を護る城郭としての役割を有していました。更に当時は、鎌倉の人々の息抜きの地でもあったようで、将軍頼経もしばしば六浦の地を遊覧し宿泊しているとの記録も見られます。
六浦路の路線図
六浦路を歩く
治承4年10月12日に、頼朝は鎌倉に入るや真っ先に材木座にある現在の元八幡を参拝し、この八幡宮を現在の場所に遷しました。更にこの鶴岡八幡宮を中心として、新しい武家政治の町鎌倉の都市計画を実施し、さらに道路を整備して館を構えるなどの都市の建設を進めました。その後八百年以上を経て、色々と町にも変化はありましたが、頼朝の考えた基本計画は今でも脈々として生きております。

筋違橋
鎌倉市史に、六浦路は鶴岡八幡宮の東の鳥居前を起点としたものらしい。そしてこの道路では大倉辻と筋違橋とに商業地域ができたと述べています。現在はそこには橋の形は無く、筋違橋の碑が建てられているのみです。この碑の存在により、この付近に鎌倉十橋の「筋違橋」が存在したことが判ります。当時は橋の名が地名として用いられていたようで、この付近の場合も広く筋違橋と呼ばれ、鎌倉の町の政治・商業及び交通の中心に位置していました。この筋違橋を基点とし東に向って六浦路を歩いてみます。

大倉幕府と頼朝の墓
鎌倉市史によると、大倉幕府の土地は「北は頼朝の墓のある岡の下を東西に引いた線、南は大倉路、いまの筋違橋から金沢に至る路の線(六浦路)、東は荏柄天神の西で、もとの二階堂大路の分岐点、関取橋のすぐ東から北へ東御門の方へ入る路があったが、その路の線。西は筋違橋から少し東で、今の西御門へ入る道路が岡の下の道路に合する線、これらの線内の地である。」東西の間口は南の線では約270m、南北約200mの54,000u面積と推定される。
尚、先の小町大路と横大路との交差点にある宝戒寺は、頼朝が大倉幕府を建設した治承4年(1180)より153年後の元弘3年(1333)に、執権北条高時が幕府を滅ぼした際の屋敷跡でらる。

荏柄天神社
六浦路に参道の入口があり、参道の遥か奥の山上に本殿がある二階堂地域の氏神社です。当社の縁起によりますと、「長治元年(1104)晴天の空が突然暗くなり、雷雨と共に黒い束帯姿の天神画像が天降り、神験をおそれた里人等が社殿を建てて画像を納め祀った縁起に始まる。治承4年(1180)鎌倉大倉の地に幕府を開いた源頼朝は当社を鬼門の守護神と仰ぎ、改めて社殿を造立されました。」と述べています。  建仁2年(1202)9月11日「荏柄社の祭りがあり大江広元奉幣の使いをする」及び建暦3年(1213)2月25日「渋河兼実(しぶかわかねざね)が明日の朝に処刑されると聞き、十首の歌を詠んで荏柄神社に奉納する」と吾妻鏡に記録が見られます。

歌の橋
六浦路が二階堂川を渡るために架けられた橋。鎌倉十橋の一です。荏柄神社の項にても説明のあった。御家人の渋河兼実が処刑を悲しんで、歌を十首詠み荏柄神社に奉納したところ、時の将軍の実朝が聞き、兼実の罪を赦した。渋河兼実は大変に喜んで、二階堂川に橋を架けて恩赦に報いたとの事です。このような謂れにより、この橋を「歌の橋」と呼ばれるようになりました。

杉本寺
鶴岡八幡宮から六浦路を東へ千三百メートルほど進むと、左手の丘の中腹に杉本寺があります。天平6年(734)に僧行基が自ら彫った十一観音を安置して開創したと云われている天台宗の寺です。頼朝が鎌倉に入る以前よりあり、古くは大倉観音とも呼ばれていました。現在は、杉本観音の別称で親しまれています。
吾妻鏡の文治5年11月23日の条に「大倉観音堂を消失す、本尊は別当浄台房が無事に持ち出した。」とあります。建久2年(1191)9月18日の条に「頼朝が大倉観音堂を参拝し、余りにも堂が荒廃していたので修理料を奉加した」。建暦2年(1212)10月]11日の条に「実朝が参詣す」とあります。

この寺には次のような説話があります「門前の路を信仰心のない者が、乗馬したままよぎると落馬するという伝えや、後に建長寺開山大覚禅師が袈裟で尊顔をおおったところ、落馬が止んだので下馬観音・覆面観音とも言われた」との話があります。

浄妙寺
杉本観音より東へと進むと、この付近は全て鎌倉市浄明寺と呼ばれる地名です。お寺の浄妙寺の(妙)の字に変えて(明)の字と一字変えて町の名前としています。
稲荷山浄妙寺の略記によれば、「稲荷山と号し、鎌倉五山の第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古刹である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(あしかがよしかね)が文治4年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子了然が住職となってから禅刹に改め、ついでに寺名も浄妙寺と称した。(中略)中興開基は足利尊氏の父貞氏で、没後当寺に葬られた。本堂裏の墓地に足利貞氏の墓がある。新編相模国風土記稿に「元弘元年(1331)9月5日讃岐守貞氏卒しければ荼毘して当寺に塔を建つ」とあり、古くから、当寺中興開基貞氏の墓塔と伝えてきた。貞氏は家時の子で尊氏の父であります。」(浄妙寺略記)

光触寺と塩嘗地蔵
塩嘗地蔵 光触寺
六浦路を東に進みバス停「十二所」(じゅうにそ)の側に、道が大きく左に曲がる角に光触寺(こうそくじ)に入る小道があります。入口にある光触寺橋を渡ると正面に時宗(じしゅう)の光触寺の山門が見えてきます。時宗の開祖一遍上人が弘安5年(1279)3月1日に鎌倉へ入った時に光触寺が開かれました。本尊は阿弥陀如来三尊で、一般に頬焼阿弥陀として知られています。

頬焼阿弥陀(ほほやけあみだ)
「昔し、町局という女性がおり、運慶に阿弥陀三尊の制作を依頼、安置していました。あるとき、家の法師が盗みの疑がかけられ、罰としてその頬に焼印を押されました。しかし法師の頬には火傷の痕を留めませんでした。その夜に女性の夢枕に阿弥陀本尊が現れ、本尊の頬にある、焼印の痕を見せました。驚いた町局は、仏師に本尊の頬の火傷痕の修理を頼みましたが、頬の火傷の痕はもとの様には戻りませんでした」(光触寺縁起より)

塩嘗地蔵(しおなめじぞう)
光触寺境内の本堂右手前に小さな庵があります、そこには大きな光背のある石地蔵と小さな六地蔵が祀ってあります。この地蔵のことを塩嘗地蔵といわれています。
新編鎌倉志に、塩嘗地蔵のいわれについて次のように述べています。「塩嘗地蔵は、道の端、辻堂の内にあり。石像なり。光触寺の持分なり。六浦の塩売買、鎌倉へ出るごとに商いの初穂とて、塩をこの石地蔵に供する故に名く。(以下略)」。
阿部正道氏著書の「鎌倉の古道」に、古老の話として塩嘗地蔵のいわれに就いて次のように述べています。「光触寺門前の滑川に架かる光触寺橋の袂に地蔵堂あり、金沢街道に面していた。金沢の塩商人は初穂をあげた後、隣の高砂屋という茶屋で、冬の寒い時など焚火にあたり、茶を御馳走になった。出掛けに塩を湯呑に一杯ずつお茶代として置いていった。」と具体的な話が載っています。

先の明治15年の参謀本部の地図を見ますと、朝比奈切通を越えた六浦側の地図を見ると、侍従川沿いに(塩)と書かれた地区が多くあります、昔はこの付近に塩田が多く開かれていた様子が分かります。また、鎌倉攬勝考の六浦の産物の項に「塩焼 海浜処々に塩屋あり。六浦村他にて製す」と六浦の塩田と塩の関係の説明がなされています。六浦路は鎌倉への物流の幹線としての役割がありましたが、特に鎌倉の町にとつての六浦路は、塩の道でもあり房総方面の交易と共に大変に重要な路でした。

朝比奈切通と滑川
六浦路は、筋違橋を起点とした路を六浦路と呼ばれていますが、ここで滑川と六浦路との関係を振り返って見ます。滑川は南部の海岸に河口があり、 そこより始まって小町大路から六浦路と常に路に沿って滑川が流れています。この川は上流に遡るにしたがってその呼名が異なっています。 これを「一川六名」を云われています。(相模国風土記稿)
河口より滑川を登って見ますと、乱橋・材木座付近の閻魔堂の前にては「閻魔川」と呼ばれ、延命寺の脇、大鳥居の辺に手は「すみうり川」、小町の辺りでは「夷堂川」と呼ばれ、 更に六浦路に沿って進むと、岐れ路の先の文覚上人屋敷の辺にては「座禅川」。  浄妙寺の前より下までを「滑川」と称し、さらに上流では胡桃川と云われます。  十二所の先は滑川に沿って旧六浦路を進みますと路の両側は深い山林と高い崖が迫ってきます。滑川は路の右や左と流れ、途中より本流を離れて支流に沿って進むとその先は「朝比奈切通」で、川の名も五名水の「梶原太刀洗水」に因んでか「太刀洗川」と呼ばれています。