大町大路


鎌倉の町には、若宮大路を中心に東に小町大路と西に今大路と町を南北に貫く三本の路があり、この三本の南北線の路を横から東西に串ざすように交差する路があります。今回はこれら東西に貫く路について紹介します。

大町大路の名称は何時から
明治15年に測量した地図東西に貫く路の一つに、大町大路(おおまちおおじ)又の名を町大路(まちおおじ)と呼ばれる路があります。

吾妻鏡に大町大路の名が初めて見えたのは、建保元年(1213)5月2日の和田合戦の条に「和田義盛は兵も矢も尽きたので、痩せ馬に鞭をうって由比ヶ浜辺りまで退いた、(中略)米町の辻、大町大路などの要所において合戦が行われた云々。」であります。
また、同じ日の条の後半に「和田義盛が再度幕府の陣営を襲うとしたが、若宮大路は北条泰時と時房が護り、町大路は上総三郎義氏、名越は近江守頼茂(中略)各々陣を張り云々」と大町大路と町大路の名が見られます。
更に時間が経った嘉禎2年(1236)11月24日の条に「町大路失火し南北十町余りの町が燃えた云々」とあります。

鎌倉市史総説編の第十一章・鎌倉の市街 三 町大路の項に「若宮大路に外部より入ってくる道路に交差することになるのである。その最も主要なものは前代からあった東海道である。東海道は足柄山を越えて相模国に入り、国府(二宮と大磯との中間)を過ぎて藤沢を経て鎌倉郡に入り、片瀬・腰越から極楽寺坂を越えて(初めは稲村ヶ崎を迂回した)甘縄に出で、下の下馬橋で若宮大路と交叉する。そして延命寺橋を渡り大町を過ぎて名越を経、名越坂を越えて三浦郡に入り、小坪・沼間を経て走水付近に出で、そこから安房へ渡ることになっていた。 この道の鎌倉におけるものが当時大町大路と呼ばれたものである。そして大町大路が若宮大路と交差するあたり、及び小町小路と交差するあたりが、鎌倉時代における鎌倉の繁華街の中心であった。」と述べています。

新編相模国風土記稿には「鎌倉繁盛の頃は此辺悉買区にして大町の名は居住の商売が多少をもて夷堂橋を境とし、以北を小町と唱え以南を大町と称す、その中央の通衛を大町大路と呼び、其の他米町・辻・名越・魚町・武蔵大路等の町名あり。」と述べています。ここに出てくる米町(こめまち)・辻(つじ)・名越(なごえ)などの地名は字名(あざな)として、最近まで使用されていました。名越の名称は国道134号の新名越随道や鎌倉市営のごみ焼却場の名越クリーンセンター及びバス停の名前等、現在も広く使用され市民に親しまれています。

古東海道は何処を通ったのか
鎌倉市史の、「前代からあった東海道とは」の説明の項に「片瀬・腰越から極楽寺坂を越えて甘縄に出で、下の下馬橋で若宮大路と交差する。そして延命寺橋を渡り大町を過ぎて名越を経、名越坂を越えて三浦郡に入り、小坪(こつぼ)・沼間(ぬまま)を経て走水(はしりみず)付近に出で、そこから安房へ渡ることになっていた。この路の鎌倉におけるものが当時大町大路と呼ばれたものである。云々」とあります。
この前代の東海道とは古事記及び日本書紀の倭建命(日本武尊)の東征伝説に述べられている伝承です。横須賀市走水にあります走水神社の説明にも「日本武尊(やまとたけるのみこと)、弟橘媛命(おとたちばなひめ)をまつる。 日本武尊が東征の際し相模の国(神奈川県)から東へ進み、走水の海を渡ろうとしたときに海が荒れ、船は進めなくなった。このとき日本武尊の妻である 弟橘媛命は、海の神をしずめるため荒海に身を投じた。すると海は、自然に穏やかになった」と有ります。この様に鎌倉を通る大町大路の路が古東海道の一部と知り、鎌倉の歴史にロマンを感じるのは私だけでしょうか。

大町大路の範囲は
この古き由緒ある大町大路は、鎌倉の何処から始まり何処まであったのか大変に興味があるところです。この疑問の答えは、吾妻鏡の承久3年(1221)正月25日の条にある「丑の刻に町大路の三善善信(みよしよしのぶ)の宅が火事により焼失す、問注所(もんちゅうしょ:鎌倉幕府の裁判所)の重要書類が焼けた云々」と大町大路の東にある名越の三善善信の宅を、町大路の家と明確に述べております。
また、鎌倉市史には「大町大路というのは極楽寺の坂下から名越の坂下まででなくとも、少なくとも甘縄を離れた今日の原之台(旧字で現在の長谷東町バス停付近を指す)の東から名越の長勝寺付近まではそういったのではないかと思われる。」とあります。

この鎌倉市史の説明より、大町大路の西の端は、現在の長谷甘縄(あまなわ)から東町の盛久頸座(もりひさくびざ)付近かと思われます。東の端は、名越の横須賀線踏切側近くの長勝寺(ちょうしょうじ)付近を指すものと考えられます。

一方、近世江戸時代に書かれた地誌新編鎌倉志には、今小路(いまこうじ)の項に「巽荒神(たつみこうじん)の辺より南、長谷までの間は、長谷小路と云うなり」とあり、巽荒神より裁許橋(さいきょばし)を渡り六地蔵の交差点にて大町大路に入った路を長谷小路と称しているので、吾妻鏡の記事とは大分異なります。鎌倉事典(白井永ニ編)には「甘縄辺から現在の名越長勝寺付近が大町大路である。この大路が若宮大路、小町大路と交差する付近が鎌倉時代の中心であった。」と書いてあります。

大町大路に沿って歩く
鎌倉市史の説明に、大町大路の西の始まりは原の台付近と述べているので、少し西よりの安達盛長の邸跡の甘縄神明社付近を出発点として、現在の由比ヶ浜通りに沿って東に向って歩きます。

鎌倉駅より江ノ電に乗り由比ヶ浜駅にて下車、瀟洒な由比ヶ浜駅の改札を出るとそこは海岸通り(国木田独歩の「鎌倉夫人」の舞台となったのは海岸通りの海岸橋)です。この海岸通りを右に鎌倉文学会館方向に向って進むと、左側の塀にへばり付く様にして「染屋太郎大夫時忠邸跡」の碑が建っている。由比ガ浜通りの交差点を渡り、そのまま進むと長楽寺谷(ちょうらくがやつ)で、奥に鎌倉文学館があり、入口に「長楽寺跡」の碑が建っている。
今回は信号のある交差点を、現在の由比ヶ浜通りに沿って歩いてみることにします。

甘縄神明社と安達盛長邸跡
甘縄神明社海岸通りの交差点を左に曲がり、由比ヶ浜通りを長谷観音寺方面に向って進み、暫らくすると右角に長谷消防署の建物が見えてきますので、この消防署の角を右に曲がって路地に入ると、左側に「川端康成記念館」があり、正面の右側に「安達盛長邸跡」の碑があり、さらに中央の石段の上には「甘縄神明社」の社が祀られています。

吾妻鏡の文治2年(1186)正月2日の条に「頼朝ならびに御台所(政子夫人)、甘縄神明宮に御参拝、帰りに安達盛長(あだちもりなが:北条政子駆落ちの場面にて大活躍した藤九郎盛長)の家に入る云々」とある。10月24日の条に「甘縄神明の宝殿を修理し四面の垣根と鳥居をたてる云々」とあります。
甘縄神明社の由緒書に「和銅3年(710)染屋時忠(そめやときただ:鎌倉の始祖的人物)の創建で永保元年(1081)に源義家が社殿を再建した。源頼義は相模守として下向の節に祈願して一子八幡太郎義家が生まれたと伝えられている」と記されているように、甘縄神明社は古くから鎌倉にある神社です。
石段の手前の右側には「足立盛長邸跡」の碑があり、頼朝が伊豆の蛭が小島に流されていた頃、安達盛長は頼朝を助けて力を尽くした。石橋山の合戦にて破れた頼朝を助けて安房に逃れ。安房の地にて兵を集めて勢いを取り戻した頼朝が、鎌倉に入り武家政治の幕府を樹立すると、盛長は今までの功績により重要な役を与えられるようになった。云々」と述べています。吾妻鏡にも、治承4年(1180)12月20日の条に「頼朝が安達盛長の家に入った」との記録があります。

盛久頸座
盛久頸座甘縄神明社より由比ヶ浜通りを、今来た道を戻り東へと進むと、長谷東町(あずまちょう)バス停付近の大きな木の下に「盛久頸座・主馬盛久頸座」の碑が建っています。2種類の碑と木製の説明があり、一番古い鎌倉同人会の碑に「盛久頸座(もりひさくびざ) 平家物語に、文治2年(1186)6月28日幕府に命じて平家の御家人主馬八郎左衛門盛久を、由比ヶ浜に斬らしめんとせしに、不思議の示現ありて之を赦したもう、とあるは此地なりと云う」と書いてあります。

新編鎌倉志にも「長門本平家物語巻20に、主馬盛久が京都に隠れていたが(中略)北条時政に捕らえられて由比ヶ浜にて斬首されようとしたところ、清水寺の観音の御利益にて助けられた云々」とあります。

笹目(ささめ)より東に進むと、多くの路が集まる交差点に達し、その角に六地蔵が祀られています。この角を斜め北に進むと、裁許橋を渡り市役所前の交差点から扇ケ谷へと通じ、その先は今大路へと連絡しています。六地蔵を祀る小高い場所には、芭蕉の句碑や飢渇畠の碑など賑やかに所狭しと並び、土地の人々による供養の花が絶えません。
この六地蔵の交差点から南西方面の道を進みますと江ノ電の和田塚駅に達します。その先左側には、鎌倉に唯一つ残る高塚式古墳があり、この塚に和田合戦の戦死者を埋葬したと伝えられ、古くよりこの塚を和田塚と呼んでいます。

下馬四つ角
下馬碑六地蔵の交差点から由比ヶ浜通りを更に東へと進むと、大町大路と若宮大路とが交差する四つ角に到達します。この付近は「下馬」と呼ばれて、鎌倉時代には鶴岡八幡宮参拝の武士達はこで馬を下り、徒歩にて参道を進み八幡宮に詣でたとの謂れがあり、この交差点を下馬と呼ばれるようになったと碑に書いてあります。

佐助稲荷の奥から流れる佐助川が、裁許橋の下を流れて滑川に合流する若宮大路の付近に、下馬橋(長さ9尺)が有ったと新編相模国風土記稿に述べています。
健保元年(1213)5月1日「和田の乱にて義盛ようやくに兵尽きて矢も無くなり、痩せ馬に鞭を打って前浜の辺に逃れ退く。北条泰時は兵を率いて中下馬橋の付近を固める云々」と吾妻鏡にも述べています。
若宮大路の交差点を横断し更に東へと進み、滑川を延命寺橋(えんめいじばし)にて渡り、延命寺の前より緩やかな坂道を上り横須賀線の踏切を渡ると、大町に入り商店街にて賑わう交差点に到達します。

大町四つ角
この交差点は大町四つ角と呼ばれ、この四つ角にて海岸の和賀江島より北に向かつて伸びて鎌倉の政治の中心地に達する、鎌倉の物流幹線である小町大路と交差します。この付近は鎌倉時代から商業地区として大変に栄えた所です。
例えば、建長3年(1251)12月3日の鎌倉市中の商業地区を定めた吾妻鏡の記事に「鎌倉中小町屋のこと定めおかるゝ処々として 大町 小町 米町 亀ケ谷の辻 和賀江 大倉の辻 化粧坂山上と述べ、 牛を小路に繋ぐべからざる事 小路掃除を致すべき事」と記されています。牛を自動車に置きかえると現在の御達しにも通じ、時代は変わっても人の行動に変りはないところが面白いです。また、この通達の14年後の文永2年(1265)3月5日の記事に「鎌倉中に散在する商店を禁じ、九箇所を許可する。大町 小町 魚町 米町 武蔵大路下 筋違橋 大倉の辻」と、先の通達後も、いつの間にか商店街が諸所に広がつており、これに対し幕府は同じような通達を再度発行しています。

安養院
安養院政子供養塔 大町四つ角から東に進むと、路の左側の小高いところに寺が見えてきます。浄土宗の安養院(あんよういん)です。新編相模国風土記稿によりますと、「嘉禄元年(1225)3月に、北条政子が頼朝の菩提の為に笹目ケ谷の辺にて方8町の寺領を所有し、七堂伽藍を営む律寺の長楽寺を建立し、僧願行を開山として永く菩提所と定めた。同年7月政子尼が亡くなられたので願行が導師となり、当寺に葬送し法名を安養院如実妙観大禅尼とした。(中略)後に火災の為に消失したので現在の地に移し安養院と名を変えてた云々」とあります。
山門を入り本堂の裏手に2基の宝筺印塔(ほうきょういんとう)があります。向って右手の大きい宝筺印塔には徳治3年(1308)7月の銘が刻まれています。鎌倉に現存する最古の宝筺印塔で国の重要文化財となっています。左の小さい宝筺印塔が北条政子の供養塔と云われています。

長勝寺
長勝寺荒行大町大路を東へと進むと名越の四つ角へと達します。この四つ角を左に曲がると名越より釈迦堂口の随道を通り浄明寺方面に抜けられます。又斜め左手の小道を進み三枚橋を渡り旧道を進むと、日蓮宗の妙法寺から安国論寺を通り再び元の大路へと出ます。
横須賀線の踏切を越えた右側に入りますと山門があり、ここが日蓮宗長勝寺です。この寺の付近までを鎌倉市史で云うところの大町大路の東端と考えられます。
新編相模国風土記稿によれば「長勝寺は松葉谷の南方にあり石井山と号す日蓮宗なり云々」とあります。現在でも日蓮宗の修行僧の荒行の最終日2月11日の酷寒の時期に、長勝寺の井戸にてに水被りの荒行が行われ、大勢の信者やカメラマンが集まります。
長勝寺と妙法寺及び安国論寺の3寺は何れも日蓮宗で、この付近を松葉ケ谷を呼び日蓮上人が鎌倉にて修行の際に法難に会ったと云われています。
ここをぬけると「銚子の井」及び「日蓮の乞水」を通り名越切通へと通じています。