朝夷奈切通


朝夷奈切通は「あさひなきりとおし」と読み、一般には朝比奈切通と書く。鎌倉の町の東側に設けられ、六浦(横浜市金沢区)に通じる金沢街道の切通で、昔の面影を残す数少ない史跡の一つである。

この切通の朝夷奈の名称に就いて次の様な伝説が伝えられている。
頼朝時代の侍所の初代別当和田義盛の三男朝夷奈三郎義秀が一夜の内に切通を切り抜いた事からこの名がついたと言われている。(新編鎌倉志)

国指定史跡朝夷奈切通

鎌倉の切通の多くは、その成り立ちとか建設工事の時期などに就いては記録が明白でない。朝夷奈切通に関しては、その計画時期から工事の遅延の様子など、吾妻鏡に時系列的に記述されている。

仁治元年(1240)十一月三十日の条に、先の会議にて鎌倉と六浦間の道路建設に就いて決議された。この計画に基ずき本日縄を張りて杭を打ち各御家人に工区を割り当てられ、来年の春に着工と決定される。

執権北条泰時が現場を視察し、工事の責任者に中野左衛門尉時景を任命し云々と泰時がこの切通の建設に熱心な様子がよくわかる。

仁治二年(1241)四月五日の条に、いよいよ朝夷奈切通の工事は予定通りに着工され、北条泰時は再び現場を視察し直接指揮をした。現場には多数の人々が働き、土石を運ぶなどして工事は進められていた。

仁治二年(1241)五月十四日の条に、道路建設は難工事の為に計画通りに進行せず遅れ気味であった。北条泰時は再び現場を視察し、工事の遅延を督促すべく自らの馬を使用して土石を運ぶなどしたので、人々は大いに奮って働いた云々と記述されている。

この険しい切通を歩くと当時の難工事の様子が想像され、北条義時の焦る気持ちがよく分る。現在の切通の状態は当時のままではなく、竣功後もしばしば改良工事が行われている、建長二年(1250)六月三日に山の内の切通(巨福呂坂か?)と共に険しい道を直し、災害などに依り道路上に埋もれた土石などを取り除く工事をしたとある。その後江戸時代においても改良工事が進められていると新編鎌倉志に述べられている。

塩嘗地蔵

朝夷奈切通へ向うには、鎌倉駅より京浜急行バスの太刀洗行又は金沢八景行きに乗り、十二所(じゅうにそ)神社にて下車して旧道に向うのがよい。切通に向かう前に一寸時間をとり、一つ手前のバス停十二所にて下車し頬焼阿弥陀で有名な光触寺 にお参りする。

塩嘗地蔵
光触寺の山門を入ると、本堂に向って右手に地蔵を奉る小さな祠がある、この祠の中央に奉られている大きな地蔵様は、古くは金沢街道に面して堂があった塩嘗地蔵(しおなめじぞう)で、明治三十年に光触寺境内に移された。(光触寺縁起)

新編相模国風土記稿によると、塩嘗地蔵は金沢街道の側にあり、石像を置く(長さ三尺)塩嘗地蔵と号す。里俗の伝に、何れの頃にや、六浦の塩売り、鎌倉に出る毎に商いの初穂として、塩をこの石地蔵に供えし事あり、故に名ずくと云うと述べている。

昔の六浦は塩の産地でもあり、また関東各地をはじめとし海外(中国)からも物資の集まる貿易港でもあつた。
この港に着いた物資は、金沢街道を通って鎌倉に運ばれた。この様に朝夷奈切通は鎌倉の町にとっては、物資の供給路として大変に重要な道路であった。


朝夷奈切通附近案内図

十二所より切通を行く

光触寺山門を出て右の小道を進み、しばらく行き「もりとばし」を渡り金沢街道に出る、街道に出て滑川沿にある桜並木の歩道を数百メートル程歩くと、十二所神社のバス停前に出る。

金沢街道と旧道に分かれる道角に案内標識が見える、朝比奈切通550m及び十二所果樹園750mと書かれている。
案内標識に従い右の旧道を進むと、左側に石材店の資材置場がある。この用地に接した奥の小高い岩の上に庚申塔が見える。

滑川を右に見て進むと泉橋を渡る。左に北上するのが滑川本流にて鎌倉霊園の中を通り和泉ケ谷へ抜けている。
右に曲がる支流は、道の左側を東に流れる太刀洗川となり旧通に沿って峠へと向っている。

梶原太刀洗水


梶原太刀洗水
泉橋を渡り数百メートル進むと道路の舗装が無くなる。朝夷奈の切通と果樹園との分れ道の手前、太刀洗川右岸の岩の間から清水がわずかに流れている、前に苔むした石の祠が見えるが、よく注意して探さないとわかりにくい。この湧き水が鎌倉五水の一つである梶原太刀洗水である。

梶原太刀洗水に就いてのいわれは次の様である。
頼朝挙兵の際に功績のあった上総介広常が讒言(ざんげん)により頼朝に疑われ、寿永二年十二月に梶原景時により双六に誘はれ、その場にて広常は殺された。

鎌倉より切通の坂へ登る左方に、岩間より湧き出る清水あり。梶原が太刀洗水と名く。或は、景時が広常を討ちし時、太刀を洗いたる水と云事歟。是も鎌倉五水の一つなり。或は此の辺に上総介広常が宅ありつるか。(新編鎌倉志)。



切通へ


梶原太刀洗水を過ぎ更に道を進むと、道が二股に分かれている。中央に国指定史跡朝夷奈切通の標識が建っている。右に行くと果樹園へ、左に行くと朝夷奈切通を通りて横浜市金沢区の朝比奈及び六浦の町に出る。鎌倉市の境の峠まで約500mの上り坂である。

左へ朝夷奈切通
分かれ道より緩い勾配の道を進むと、道幅は他の切通と比較して広いが、何時行ってもまるで川の中を歩くようにぬかっている、転ばぬように岩の上などを選びながら登ると、道の脇には人家の基礎の様な石積が残っている。昔は茶店などがあったのか?

次第に勾配が険しくなる、道端に石像等が見られて昔の街道を思わせる。両側の崖が切り立ったように険しくなり、いよいよ鎌倉城の要塞としての切通らしくなる。また、道のぬかるみも急速に乾きやれやれと思うとそこは峠で、横浜市の標識が見られる。

朝夷奈切通に就いての記述は多く見られる、その一部を紹介すると次の様である。


新編相模国風土記稿には、朝比奈切通は鎌倉七口の一なり、孔道大小二あり、十二所村界にあるを大切通と云う(道幅四間許)、大切通より一町程を隔て東方村内にあるものを小切通と呼ぶ(道幅二間許)、共に鎌倉より六浦への往還に値れり。

徳川光圀の鎌倉日記には、爰を過ぎて大切通、小切通と二つ有り。朝比奈義秀が一夜に切り抜きたると云也。六浦より鎌倉への入口也。

珍しい記録としては、幕末に長岡藩の家老として活躍した河井継之介が、長岡を出て江戸・横浜と回り、安政六年(1859)六月八日に朝夷奈切通を経て鎌倉に入った時の紀行文の塵壷に次の様に述べている。

あさひな切通と歟、岩を切抜し処、所々にあり。高さ十間あまりもあらん。南一方は海まで開けども、あとは何れも狭隘の道、険を設るためならん。

横浜側より切通を行く

徳川光圀及び河井継之介達は、鎌倉に入るのに六浦より朝夷奈切通を通っている事から、今回はさきの鎌倉より入るのとは逆に横浜の六浦側より切通に入る。
JR鎌倉駅前より金沢八景行きの京浜急行バスに乗り、約30分程にて横浜市側のバス停朝比奈に到着する。

道標に従って人家の間を登ると、自動車専用道の横浜横須賀道が頭の上を通過している。更に進むと左手に熊野神社入口が見えてくる。左に曲がって間道を進む事約500m先の山裾に奉られている。

しばらく登ると道の両側から崖が険しくそそり立ってくる。ここが新編相模国風土記稿等に云う東方村内の小切岸か。更に進み横浜市と鎌倉市の境近くに再び山が険しくなる、ここが十二所の大切岸と称する昔の防衛線に当たる所かと考えながら峠を越えて鎌倉側に入る。

峠を過ぎた鎌倉側は、横浜側と異なり常に水が湧き出る川の道となる。転ばぬようにこの坂道を行くと十二所神社のバス停に到達する。

朝夷奈切通は他の切通に比較して道幅は広いが距離が長く、特に鎌倉側は道が太刀洗川と一緒になり足場が大変に悪い。
雨の日は避けた方がよいが、晴天の日でも足元は十分な準備が必要である。