大仏切通


大仏切通は鎌倉の西北に位置する、長谷と常磐及び笛田の境界附近の山中にある鎌倉の出入口の一つである。この切通が何時頃造られたかは不明で、吾妻鏡にも大仏切通の名称は見えない。
大仏切通
大仏切通写真

新編鎌倉志の大仏切通に関する記述を見るに、次の様に述べている。
大仏切通 :大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。吾妻鏡に、治承五年(1181)九月十六日に、足利俊綱が郎党、桐生六郎、主の首を持参して、梶原景時が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より深沢を経て腰越に向うとあり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。云々」とある。

この記述によると、武蔵大路が鎌倉の外にあるように書かれているのが些か気になる。そこで鎌倉市史(総説編)を調べると、桐生六郎の行動の記述より武蔵大路の位置を次の様に述べられている。

「吾妻鏡の記述を見ると、武蔵大路は鎌倉の中ではないようである。そこでこれを仮粧坂と解したらどうなるであろうか。なを、新編鎌倉志には桐生の経た道を大仏坂を越えたようにしてあるが、それでは鎌倉の内を通ることになる。これは勿論不当である。」

この様に見てくると新編鎌倉志に述べる大仏切通の説明は少々異なると考えられる。それ故、吾妻鏡の桐生六郎と大仏切通とは関係が無いと考えられるので、この切通の建設時期は不明である。

鎌倉攬勝考には、この道を行くと梶原村、山崎村等を経て藤沢道に合流する。また津村、腰越の方にも通じている。古くは深澤切通とも称したと述べている。

新編相模国風土記稿には、大仏坂は大仏の西にあり登り四十五間(81m)、この地を大仏切通と称すと大変に簡単に述べている。
大仏切通案内図
史跡大仏切通案内図

大仏切通を訪ねる

大仏切通を訪ねたいが如何様に行けばよいのか、出入り口が解からないとの言葉をよく聞く。私自身も行き方が解からず、最初は知人に案内してもらい大仏切通をやっと訪ねることが出来た。その後は一人で何回か訪ねるうちに、どうにか迷路の入口が整理できたので上記の「史跡大仏切通案内図」に1〜5と番号で示した。

入口1 火の見下バス停より入る

入口1 バス停火の見下
火の見下入口写真

長谷の大仏より地方道深沢鎌倉線の道路を深沢方面へと西に進む。大仏隧道を抜け鎌倉行きのバス停「火の見下」前に理容店があり、 その右隣の家と駐車場の間の小道より入る。 (写真中央の小道、右側は駐車場)

コンクリート舗道版が敷かれた幅2m程の道を約10m進み右に曲がる。突き当たりを左へ曲がり人家の軒先のコンクリート舗装の上を進むと、目の前に突然切通の入口が迫ってくる。
ここからは道幅の狭い山道となる。大きな木が倒れて道を塞いでいる、この倒木の下をやっと潜ってしばらく進むと道が開けてくる、左手の草むらに「国指定史跡大仏切通」の標識が見える。

ここから道は右に大きく曲がり、狭い堀割の間を登って行く。大きく曲がった左側の正面に高さ約10m程の大切岸が道を囲むように垂直に聳えている。道の左右も同様に岸が削り取られ、登り道の中央には大きな岩が行く手を塞ぐように突き出している。

鎌倉市史(考古編)にこの附近と思われる大仏切通の描写を次の様に述べている。
「底幅2m余の狭い切通が殆ど直角に尾根を深さ7〜8m切り割っている。切通の外側に当たる部分の山腹も切った様に切られている云々」

更に進むとまわりが開けと思うと、休む暇なく再び両岸が険しく聳えたち、道は狭くなり大きな岩がごろごろと転がっている。
この様に険しい道を作ったのは、往時は一旦緩急あれば切通は要塞と化し、鎌倉を攻めるべく敵の軍勢がここを通過しようとすると、両岸の上に設けられた平場に待機している兵士が、上から矢を射たて岩を落として攻立て鎌倉に入るのを防いだであろうと想像される。此れぞまさしく八百年前のまま残っている鎌倉砦を、我々が歩いているのである。

再び現代に戻り狭い山道を進むと道は二手に分かれている、真っ直ぐに進むと大仏隧道の鎌倉側 入口4の大仏坂体育館の脇に降りる階段に連絡しているが、現在はこの道は途中が崩れていて危険である、無理して進むと木の根に捉まり這う様にして大変に難儀する。

左手に進むとそこは平坦な住宅地の中で、道は舗装され自動車が駐車している。中世からいきなり現代に戻ったようでほっとする、ここが住友常盤住宅で、入口2は写真の自動車の先端近くの雑木林の隙間より出入りする

入口2 住友常盤住宅
住友常盤住宅入口


ここより道路に出たならば、道路に沿って進むと市役所通りに出る。この道を右(東)に進み長谷隧道を抜けて長谷大谷戸の交差点を渡り、二番目のトンネル新佐助隧道を通るとそこは鎌倉の官庁街で法務局・鎌倉税務署が並ぶ。三番目のトンネルの新御成隧道を抜けると右手に市役所更に進めばJR鎌倉駅西口へと一直線に到達している。

この道を逆に進めば大仏切通への入口2より中世へと繋がっている。



入口3 一向堂公園口

入口2 よりいきなり鎌倉駅に出てしまったが、大仏切通の探索は終わっていない。先の住友常盤住宅と山裾の道路を東に進むと途中に公園がある、ここが一向堂公園である。

一向堂とは昔僧唯善草庵がこの附近に有ったが、戦国の際に兵火に罹りて庵が廃跡となった。その後はこの附近を一向堂と呼ぶようになった。(新編相模国風土記稿)

さて、公園の右手の南側に狭い通路が山の中に入っている。この山道に入ると、階段の途中の三叉路に出る。左手の山から下りてくる階段は、入口5 に当たる源氏山からの大仏ハイキングコースの一部である。この階段を左に進むと大仏坂体育館の脇の 入口4に出る。
この三叉路の少し下に西から来る道が交差している。これは先に崩壊して危険故に通行をしない様にと述べた道の東の出口である。

この他に番号を付けてないが極楽寺からの入口がある、大仏坂体育館に出る階段の途中に南に延びて大仏隧道の東口の上を越える階段がある、これを登ると長谷配水池に到達する。ここで一休みして後は、谷戸の下りの道を進むと稲村ケ崎小学校の脇を通りて極楽寺の切通に出る。

以上で大仏切通の出入口を5ヶ所と南に出る道1ヶ所の計6ヶ所の出入口を紹介した。山道は非常に険しい道が多いので服装、特に履物に気を付けて怪我をしない様に十分に注意することが肝要である。

話は変わるが、手元にある鎌倉市の市制三十周年記念に発行された「図説鎌倉回顧」を開いていたところ、有島生馬が明治十八年の大仏切通の様子を述べているので紹介する。
「初めて私が横浜から鎌倉材木座海岸、海岸橋近い砂丘のかげに新築された小さな別荘へ来た事は妙にそこだけ覚えている。明治十八年初夏で私は数え年四歳だった。
藤沢まで鉄道、藤沢からは人力四五台を連ね手広、笛田、大仏切通しと揺られ、長谷に着いた。云々」とこの険しい切通を当時は人力にて登った様であるが、現状からは想像もつかない。