極楽寺切通


極楽寺切通は鎌倉の町の西方に位置し、京都方面から鎌倉に入る要路の一つである。この極楽寺切通を有名にしたのは 、元弘三年(1333)に起きた新田義貞の鎌倉攻めである。
極楽寺切通
極楽寺切通写真

太平記の「新田義貞鎌倉中に攻入る事」の条に曰く。
義貞は新田軍を三手に分け、第一部隊は大館宗氏(おおだちむねうじ)を左将軍、江田行義(えだゆきよし)を右将軍として、総勢十万余騎で極楽寺切通に向わせた。
第二部隊は堀口貞満(ほりぐちさだみつ)を上将軍、大島義政(おおしまよしまさ)を副将軍として、総勢十万余騎にて巨福呂坂(こぶくろざか)へ向わせた。

第三部隊は新田義貞と弟の脇谷義助(わきやよしすけ)が担当し、総勢五十万七千余騎にて仮粧坂(けはいざか)から攻め寄せた。

一方鎌倉幕府軍は、相模高成(さがみたかなり)・城景氏(じょうかげうじ)・丹波時守(たんばときもり)を各々大将として三方面に分かれて鎌倉の防衛を受け持った。

第一の部隊には金沢将監(かなざわしょうかん)をつけて三万余騎にて仮粧坂を守った。

第二の部隊は大仏貞直(だいぶつさだなお)を大将として五万余騎にて極楽寺切通を固めた。

第三軍は赤橋守時(あかはしもりとき)を大将として五万余騎にて州崎(すさき:現在の深沢・山崎・寺分・町屋の付近)方面の配置に付いた。

新田軍の第一部隊の左将軍大館宗氏は、大仏貞直の率いる幕府軍の本間左衛門(ほんまさえもん)に討たれたので、新田軍は腰越付近迄退却した。

この事を聞いた新田義貞が、兵二万余騎を引き連れて急いで極楽寺に来てみると、極楽寺切通は山は高く道は険しい切通である。そこには幕府軍が木戸を構えて盾を並べ、陣を整えて新田軍を待ち構えていた。

南の海側の稲村ケ崎の道は、海岸の砂浜の道が狭く、その上幕府軍は波打ち際まで逆茂木(さかもぎ)を回らし、沖には舟を何艘も浮かせて、海岸の方から攻めてきた新田軍に矢を射掛けようと待ち受けている。

ここにおいて攻め倦んだ新田義貞は、腰に差した黄金造りの太刀を捧げ、竜神に潮を退かせるように祈りて太刀を海中に投じた。その夜に海の潮が沖まで退いたので、義貞は大軍を引き連れて鎌倉に攻入った。この事は誰でも知っている有名な話である。

この結果、北条高時(ほうじょうたかとき)の一門は東勝寺(とうしょうじ)において自害し、頼朝以来長く續いた鎌倉幕府もついに元弘三年五月二十二日に幕を閉じた。

吾妻鏡を見るに、極楽寺に就いては 二三その名が見えるが極楽寺切通に関しては記述が見当らない。何時誰がこの切通を開いたのか大変に興味のある所である。

新編相模国風土記稿に、「極楽寺坂は坂之下村堺にあり(登り三十間余(55m)・幅四間(7.2m))往古重山畳峰なりしを僧忍性(にんしょう)疎鑿して一條の路を開きしと云う、即ち極楽寺坂切通しと唱えるはこれなり。」と忍性が切通を切り開いたと述べている。

忍性は極楽寺の開山 にして、特に土木事業に力を注ぎ道路改修・橋梁の架橋等の建設を行ったと云われている。この様な事から極楽寺の近くの切通の改修を行ったと伝えられたのであろう。

又慈善救済事業にも熱心で、病人の為に治療所を開き多くの人を救った。その他坂之下に馬の病舎を設けて馬の治療に当たったと云われている。
極楽寺切通案内図
史跡極楽寺切通図

長谷駅より訪ねる

JR鎌倉駅より江の島電鉄に乗り約 5分ほどにて長谷駅に到着す。改札口を出て左へ進み踏切を渡りて海の方へ歩くと信号のある三叉路に突き当たる。この交差点を右に曲がりて西に進むと右手に「力餅屋」がある、この角を右に曲がって江ノ電の踏切を越えたところに神社が見える。

御霊神社(ごりょうじんじゃ)またの名を鎌倉権五郎神社、俗に権五郎さんと称す。平安時代末期に創建され、当初は関東平氏の祖霊を奉祀したが、後には鎌倉権五郎平景政公(かまくらごんごろうたいらのかげまさ)一柱をまつる。

吾妻鏡に屡この神社の名が見られる。文治元年八月及び建保三年六月に御霊社鳴動す。建久五年一月御霊社に奉幣。同年十一月御霊社の前浜にて小笠懸あり。建長四年十一月十七日御霊社前の海辺にて七瀬の祓いを行う。

また中世の紀行文海道記(かいどうき)に鎌倉描写の一文あり「稲村と云うところあり。険しき岩の重なりふせるはざまをつたいいけば、岩にあたりてさきあがる波、花のごとくに散りかかる。申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。暫く休みて、この所をみれば、数百艘の舟、とも縄を括りて、大津の浦に似たり。千万字の宅、軒を並べて、大淀の渡しに異ならず゙。御霊の鳥居の前に日をくらして後、若宮大路より宿所につきぬ。」と稲村ガ崎より坂之下の御霊神社を通って鎌倉に入る様子が詳細に描写されている。

再び力餅屋の角まで戻り、元の道を西へと進と道が左に曲がりながら少々登り坂に掛ると、入口近くの右手に井戸が見える。
星月夜の井
星月夜の井写真


星月夜の井」またの名を星の井とも言う。鎌倉十井(かまくらじゅっせい)の一つである。昔からの言伝えに依ると、この井戸の中に、昼でも星が見えたのでこの様な名前がついた。ある日の事、この付近に住んでいた者が水を汲みに来たとき、誤って包丁を井戸の中に落としたことから星は見えなくなったと新編鎌倉志に述べている。

虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)は星月夜の井の隣の小高い所に奉られて、明鏡山円満院星井寺と称す。この寺は天平時代に行基大僧正によって星の井戸との因縁により建立され、その後源頼朝もこの虚空蔵菩薩を崇敬した。御堂の正面に安置されている仏像は前立尊で、頼朝が仏師運慶に命じ彫らしたと縁起に述べている。

さて極楽寺の切通であるが、名越・大仏等の史跡として保存されている切通を知る者には極楽寺切通は何処に有るのか大変に疑問の有るところである。太平記に述べるところでは切通は大変に険しく、攻めるには困難であると書かれている。然し、目の前に有る道は上下二車線の舗装道路で、片側に歩道も設けられている。勾配もさほどにきつくなく、知らないで通れば切通とは分からないで通過してしまいそうな道である。昔の面影はまったく無い。

往時は、切通の高さは南側山上にある成就院の門の位置まで有ったといわれている。交通の便を容易にすべく、次第に切り下げられ現在に至ったと考えられる。鎌倉市文化財資料第7集「としよりのはなし」に次の様な古老の話が述べられている。

「虚空蔵さんは、前には今の位置より南にあった。極楽寺坂が広げられるにつれて、元の御堂が壊されて、大安斉の山を少し削って今の御堂を建てた。」と近年においても道路の拡張工事が行われた事が窺い知れる。

極楽寺切通は延長約二百五十米、星月夜の井と成就院の山門迄の高低差を二十米以上と考えると、昔の勾配は約十六パーセントと大変に厳しい登りと推定される。

太平記に云うところの「新田義貞が精兵二万余騎を引き連れて、二十一日の夜半に、片瀬・腰越を廻って、極楽寺坂へ到着す。明け行く月に敵の陣を見れば、北は切通にて山高く道さかしく云々」の言葉通りである。また、北斜面は高さ約三十米程の切り立った垂直に近い崖となっている。
薬鉢と茶臼
薬鉢と茶臼
成就院山門
成就院山門
極楽寺山門
極楽寺山門


成就院(じょうじゅいん)は切通の中央付近の南の山上にある。平安時代の初期の僧空海は真言宗の開祖にして、弘法大師と称した。ある時江の島に至りし時、この地において数日間に渡り護摩を焚いて修行を行った。

その後、この弘法大師が護摩を焚いた聖地は人々から忘れ去れていたが、第三代の執権北条泰時が京都より高僧を招き、承久元年(1219)にこの聖地に寺を建立し願成就院と称したといわれている。

成就院の山門の前に立ちて極楽寺切通を眺めるに、この山門は確かに道に向っているが、時代と共に道が次第に堀り下げられてしまい、現在では極楽寺切通は遥か下の方を通っている。

それ故、寺への出入りは左右の階段を上ってくるようになった。新田義貞が見た極楽寺坂は、この山門の高さを通り鎌倉に入ったのか?

想像を逞しくしていると、はるか下の道を自動車が通り抜けていくのが見える。

さて成就院の階段を下り、この切通を更に西へと進むと江ノ電の跨線橋桜橋に至る。この分かれ道にて橋の手前を左に進むと七里ヶ浜の海岸に至る。左に稲村ヶ崎、右に江の島が見える。

桜橋を渡ると、線路に沿って左手に極楽寺の山門が見える。 極楽寺(ごくらくじ)は霊鷲山極楽寺(りょうじゅうせんごくらくじ)と称す。第三代執権北条泰時の弟にあた る北条重時が開基の真言律宗で、開山は良観房忍性である。天元元年(1259)の創建と云われているが、実際に寺として整備されたのは文永四年(1269)以降で、重時が途中にて病にて没したので、子息の北条長時及び業時により完成された。

極楽寺は創建時においても相当な規模を有していたが、七堂伽藍等を整備して寺院として確立したのは、忍性に依るといわれている。

忍性は慈善事業に力を注ぎ、鎌倉における困窮者に対する施米をはじめ、療養所の設置及び坂之下の馬の病院の設置等多くの事業を行い人々を救済した。

忍性はまた、建設事業にも力を注ぎ、寺院造営の建築の他に橋梁の架橋工事、道路の改修など多くの土木事業を進めた。このような実績を有していた為に、極楽寺の切通の改修工事も忍性が行ったと伝えられている。

現在においても、極楽寺の山門を入りて参道を進むと本堂の手前の右手に、忍性が使用した薬鉢と茶臼とがおかれている。