鎌倉七口の坂と切通を歩く


 今を去ること八百余年前の治承四年(1180)八月に源頼朝が挙兵、伊豆の国司代人山木兼隆の館を急襲し、源氏再興の旗揚げをしたが、石橋山の合戦にて大敗をし命からがら安房国に舟で逃れた。

 この時安房国において、千葉介常胤が頼朝に対し「今居る所は、敵から攻撃をうけた時には防ぐには適当な場所ではなく、また源家先祖伝来の地でもない。速やかに相模の国の鎌倉に赴くべきである」。と熱心に鎌倉行きを薦めた。この進言により頼朝は鎌倉に入ったと言われている。(吾妻鏡)

 鎌倉は三方を山に囲まれ、一方は海に面した天然の要塞である。後に摂政九条兼実(くじょうかねざね)の書いた日記に述べられている「鎌倉城」との名称は、鎌倉が要害の地であることをを端的に表している。(玉葉)

 一方この要害であることと裏腹に、外部より鎌倉への出入は大変に不便であった。

例えば中世紀行文に、稲村ケ崎を廻って海側より鎌倉に入る時の描写として「稲村と云う所有り、険しい岩が重なり横たわる狭い間を伝わり進むと、岩に当たって打ち上げる波が花のように散りかかる」と述べている。(海道記)

 また、頼朝の妻政子が治承四年十月に走湯山(そうとうざん)を出て鎌倉に入る際にも、この険しい稲村ケ崎を廻り由比ヶ浜の稲瀬川に出たと述べている。(吾妻鏡)

 この様に、一般に鎌倉に入るには、稲村ケ崎の様な危険な道を通る他は方法は無く、人や物資の出入りには大変に困難であった。

 その後鎌倉と周辺の地域との交通の便を図るべく、海には港(和賀江島)を設け、山には切通を掘削し、外部との往来を容易に出来るようにした。

 山の切通と坂を新編鎌倉志は「鎌倉の七口」と称している。

 ここに云う七口とは名越切通・朝夷奈切通・巨福路坂・亀ケ谷坂・仮粧坂・大仏切通・極楽寺切通を指す。

 今回はこれら切通と坂を、皆さんと一緒に歩いてみることにする。

 次に示す鎌倉七口案内図上に朱色で書いた切通の名称をクリックすると、目的の場所にジャンプします。