亀ケ谷坂


亀ケ谷坂は「かめがやつさか」と読む。鎌倉の北に位置し山ノ内と扇ケ谷とを結ぶ切通である。

亀ケ谷の名は吾妻鏡の治承四年(1180)十月七日の条に「頼朝は六日に鎌倉に到着し、七日に先ず鶴岡八幡宮(現在の元八幡宮)に参拝し、次に父親義朝が住んでいた亀ケ谷の御旧跡を訪れた云々」と頼朝が鎌倉到着の翌日に訪れた亀ケ谷の名前が吾妻鏡に見られる。その後は数多く亀ケ谷の名が出てくるが、亀ケ谷坂との切通の名は吾妻鏡の何処にも見られないのは不思議なことである。
亀ケ谷坂
昔よりの言い伝えに依ると、亀ケ谷坂は勾配が大変にきついので、亀が坂を登る途中にてひっくり返る程であるとか。あるいは亀が坂を登れずに途中から戻った、などからこの名が付いたと云われている。現在の亀ケ谷坂はその後に何回も改修された為か、亀がひっくり返る心配はない程に勾配は緩くなっている。

一方、現在ではこの附近を扇ケ谷と称するが、昔は亀ケ谷と称したのである。その後は亀ケ谷の名は次第にすたれ、現在においては扇ケ谷の名が使われるようになった。

この地名に就いて、新編相模国風土記稿に「扇ケ谷村に扇ノ井と称する清泉あり、地名もやがて是にもとずいた。この辺は古は全て亀ケ谷と唱え、扇ケ谷は其の中の一所の小名なり、されど管領上杉定正がここに住し、世に扇ケ谷殿と称されしより亀ケ谷の唱え漸く廃れ、専ら扇ケ谷と称すようになった。」と管領上杉氏がこの地に住むようになって以来、扇ケ谷と亀ケ谷の立場が逆転した模様が述べられている。

亀ケ谷坂に就いて、新編鎌倉志に「亀ケ谷坂は、扇ケ谷と山ノ内との間也。南は扇ケ谷、北は山ノ内也。寿福寺を亀谷山と号して、亀ケ谷中央なり。此所は亀ケ谷へ行く坂の名なり。」と書かれている。
亀ケ谷の名は、既に江戸時代において寿福寺と切通の名称だけが残った様子を述べており、この付近は既に扇ガ谷と呼ばれるようになっていた。

新編相模国風土記稿によると「亀ケ谷坂は扇ケ谷村東より山ノ内村へ出る坂なり。」と簡単に述べている。

鎌倉市史(考古学編)に、当時の鎌倉における亀ケ谷坂の防衛線としての役割を次の様に述べている。
「山ノ内に入った敵軍は、長寿寺の脇を経て亀ケ谷坂に侵入する事が出来る。この道が尾根を切り通した亀ケ谷坂である。現在の切通は後世において深く且つ広く改修したものである。当時は現在の切通のはるか上の狭いところを切通道が通っていたので、ここに逆茂木を並べて陣を敷いて待ち構えていたら敵軍は通る事は出来ない。」と切通の軍事施設としての様子を説明している。

鎌倉市史(総説編)には亀ケ谷と武蔵大路の関係に関し次の様な興味深い記事がある。

「武蔵大路が鎌倉内であることは吾妻鏡の文永二年(1265)三月五日の条の町御免の場所に、武蔵大路下とあることによって殆ど疑いがない。これよりさき建長三年(1251)十月三日の条にも町免許の場所があげてあるが、それには亀ヶ谷辻というのが見える。これは亀ヶ谷辻を武蔵大路といいかえたのではないかとすぐに思いつく云々」と亀ヶ谷附近は武蔵大路と称したのではないかと推測されている。

一方、新編鎌倉志の大仏切通の項には、桐生六郎と梶原景時とのやり取りより、武蔵大路は鎌倉の外のように述べていたが、上記の町免許の場所より見て鎌倉内の亀ケ谷辻附近と思われる。

亀ケ谷坂を訪ねる

亀ケ谷坂案内図

亀ケ谷坂を訪ねるには、JR鎌倉駅西口を降りて駅前を西に向って約百数十米進むと市役所前の信号の有る交差点に到達する。この角を右に曲がりJRに沿って北に向って今小路(新編鎌倉志:勝の橋より南の道を指す)を約五百米程進むと左に寿福寺が見えてくる。

寿福寺は頼朝の父義朝の館跡と云われており、頼朝が鎌倉に到着した翌日に亀ケ谷の御旧跡を訪ねたと、吾妻鏡に述べられているのは寿福寺のある場所を指す。

寿福寺の前の道には、鎌倉十橋の一つである「勝の橋」が形を変えて残っている。 この橋の前よりJRの踏切を渡る道が東に延びているのが見える、この道は八幡宮の前(横大路)を通り宝戒寺の前にて左に曲がり、筋違橋を渡りて金沢街道から朝夷奈切通へと通じている。鎌倉幕府以前より存在した古い道といわれている。

寿福寺前よりJRに沿って更に北へ進むと英勝寺の門前に出る。英勝寺は太田道灌の屋敷跡で、道灌の曾孫太田康資の娘の勝の局が開基す。後に水戸家より姫を迎えて住持とした尼寺である。

英勝寺の前を更に北に進むと、十六夜日記の著者阿仏尼の供養塔と言われる塔がある矢倉が左に見えてくる、さらに進むとJRの扇ガ谷跨道橋の下を通る道に交わる。この道を左に行くと仮粧坂に通じている。

今回は右に曲がりJR扇ケ谷跨道橋の下を潜り抜けて進むと左手に小さな古ぼけたお堂が有る。これが岩船地蔵堂で、この角を左に曲がると亀ケ谷坂に通じている。

岩舟地蔵堂

岩船地蔵堂は「いわふねじぞうどう」と称す小さなお堂である。伝承に頼朝の娘大姫を供養する地蔵立像を安置すると言うが詳しい事も、伝承の由来も不明である。扇ケ谷絵図に現在と同じ場所に地蔵堂が描かれている事から宝永年代(1704)以前より在ったのであろう。天保十二年(1841)新編相模国風土記稿に「地蔵堂岩船地蔵・立像長一尺余と称す。」と有る。(神奈川県博物館協会会報第二十九号に三浦勝男氏著:鎌倉岩船地蔵堂)

岩船地蔵堂

地蔵堂の角を左に曲がり北に進むと其の先は亀ヶ谷坂に通じる。道の左手奥に薬王寺が見えてくる,薬王寺は日蓮宗の寺で大乗山薬王寺と号する。

さて、この道は幅員も十分あり舗装もされている事から往年の面影は無いのかと思われる。その様に考えながら人家の間を数百米程進むと、突き当たりに旅館が見えてくる。この附近より人家も途絶え左右から山が迫ってくる、道幅も狭くなり舗装も頁岩の色に合わせたように黄色くなってくる。

昔は舗装も無かった様に記憶していたが、何時頃から舗装をしたのかと考えながら進と、後ろからオートバイが轟音をたてゝ追い越していった。この道は自動車は通れないが二輪車は通れるのである。生活面より見ると山ノ内と扇ガ谷とを最短距離にて結ぶ大変に便利な道である。

一方、史跡を大切に残そうと考えると、舗装をしたりオートバイを通すことは些か問題があるように思われる。折角八百年もの間ご先祖様達が大切に残されたこの遺産を、我々の代にて生活の便利さだけにより現状に大きく手を加えるのは如何かと思われる。子孫のために大事に残してやりたいと思うのは、私だけでは無い等と考えながら大分きつくなつた坂道を登る。

やっとの思いで坂道を登りきると、頂上附近に誰が置いたか古ぼけた椅子が数脚置いてある、山の内側に比べて鎌倉側よりの上り坂は大分きついので一休みするには丁度良い。

道の左側に「国指定史跡亀ケ谷坂」の標識が見える。左の崖は高く険しいが、朝夷奈及び名越等の他の切通に比較して少し様子が異なる。右の崖は高さも低く、一部民家の為か石垣や塀が作られている。

頂上を越えて山の内側に入ると、鎌倉側に比較して勾配も緩くなり、途中より人家の石垣等が続いている。道の左側に長寿寺の境内が見えてくると、そこはバスなどが走る県道である、此処までが亀ケ谷坂である。

切通の状態を観察するに、鎌倉時代は山の峰を通った狭い獣道に近いもので、その当時は亀もひっくりかえる程の急勾配であったのであろう。太平記の新田義貞による鎌倉攻めに、亀ケ谷坂の名が無いのは巨福呂坂に比べて軍勢が通れる道では無かった事に依ると勝手に想像してみる。

後世において岩を削り道を改良した結果、現在の状態に近い坂道となったのであろう。確かに坂を歩くと、現在に於いても両岸の岩肌にかすかに鑿の跡らしい物が見える、江戸時代の改良工事の名残かも知れないと思ってみるとロマンを感じる。