仮粧坂


仮粧坂(けわいざか)は鎌倉より梶原・藤沢を経て関戸・分陪方面へと抜ける鎌倉街道の一つで、いわゆる上の道へと通じる鎌倉の出入口の一つである。
この仮粧坂の上にある源氏山は、八幡太郎義家が奥州へ出陣に際して、源氏山の山上に旗を立てたことから、旗立山又は御旗山とも呼ばれたといわれている。(新編鎌倉志)

この様な言い伝え及び武蔵方面に通じる重要な道である事から、この道は鎌倉幕府の開府以前から存在した古くからの交通の要所と推定される。
仮粧坂
大仏切通写真
仮粧坂の呼名には昔から色々な字が当てられている、例えば吾妻鏡には気和飛坂と書いている。
江戸時代の地誌、新編鎌倉志・鎌倉攬勝考及び新編相模国風土記稿等には仮粧坂(けわひざか)等の文字が用いられている。
現在では、一般には化粧坂と書いてけわいざかと読んでいる。

その名の由来として伝えられているものに、昔平家の大将の首を化粧して首実検したことからこの名が付いたとか、またの説にはこの付近に遊女が住んでいた事から付いたとも言われている。(新編相模国風土記稿等)

吾妻鏡に気和飛坂(仮粧坂)の名が見えたのは、建長三年(1251)十二月三日の条に、鎌倉の商業地区を次の様に定めている。「大町・小町・米町・亀ケ谷の辻・和賀江・大倉の辻・気和飛坂の山上」。と仮粧坂の山上に商業地区が栄えていたことが窺い知れる。

また、同時に牛を道に繋ぐべからず及び道の掃除をする様にと事細かく指示している。牛を車に置き換えてみると、八百年前も現代も人のやることは少しも変わっていないのが面白い。

建久四年(1193)五月二十八日、富士の裾野にて頼朝が巻き狩りを催した、その際に宿敵の工藤祐經を討ち取った曽我十郎・五郎の仇討物語。「曽我物語」の巻五けはひ坂の遊君(遊女)が事の条に 次のように述べられている。

「仮粧坂の下に美しき遊君が住んでおり、曽我五郎時致はこの女性に深い情けをかけていた。また一方、梶原景時の長男梶原景季も同様にこの美人の女性を憎からず思い、仮粧坂の里に通っていた。ある日の事である、景季が他の男性の事にて彼女をからかった事から遊君は悲しみのあまり奥に引きこもり、それからは人前に出ようとしなかった。
それとは知らずに通って来た五郎時致は、彼女が奥に引きこもり出てこないので会うことが出来ない、困った曽我五郎時致は「 逢うと見る夢路にとまる宿もがな、つらき言葉に又も帰らん」と歌を書いた手紙を結び置いてそのまま帰った。
遊君は後でその歌を読み、大変に嘆き悲しみ、ついに出家をして諸国修行に出てしまった。最後は大磯の虎御前に住み天寿を全うした。」と曽我五郎時致の悲恋物語が書かれている、この書から仮粧坂の麓に遊女が住んでいたと推定される。

太平記の巻第二俊基朝臣誅戮の事の条にも仮粧坂の名が見える。
「後醍醐天皇による鎌倉幕府討伐計画の陰謀が露顕した元弘の変にて、日野俊基は元弘二年七月に逮捕され鎌倉に送られた。
いよいよ処刑と決まった当日は、日野俊基は張輿(はりこし)に乗せられて仮粧坂へと向った。その日は道の周りにて、鎌倉中の人々が俊基の刑場行きを見物した。処刑担当の工藤次郎左衛門尉は、葛原岡(くずはらがおか)に大きな幕を引き回らし、その幕の中に敷皮を敷き、その敷皮の上に俊基を乗せた張輿を据えた云々」と述べられている。

同じく太平記の巻第十新田義貞鎌倉中に攻入る事の条に、元弘三年(1333)五月八日に生品明神(いくしなみょうじん)にて鎌倉幕府打倒の旗揚げをした新田義貞は上の道を鎌倉に向かって進撃を開始し、十一日には小手指原(こてさしはら)にて鎌倉軍と戦い打勝つ。
関戸にて軍を三方向に分け、一軍は極楽寺、二軍は巨福呂坂へ、三軍は新田義貞・義助が脇谷・堀口以下一族の諸将の軍勢に前後左右を囲ませて、総勢五十万七千余騎にて、仮粧坂から攻め寄せた。

一方、鎌倉幕府軍は金沢時盛を大将とし、安房・上総・下野の軍勢三万余騎にて仮粧坂を護った云々。この様に仮粧坂における新田義貞の鎌倉攻めの様子が述べられている。

鎌倉駅より仮粧坂へ

源氏山・葛原岡へ登る道は多いが、仮粧坂を通る道はこの道一つしかない。
JR鎌倉駅の西口を出て西に向い、市役所前の交差点を右に曲がり扇ケ谷の寿福寺・英勝寺方面に向う。

昔の今大路をJR横須賀線に沿って進むと、左手に寿福寺及び英勝寺と並んでいる。英勝寺の北側墓地の脇の矢倉に十六夜日記の作者阿仏尼(鎌倉十橋の針磨橋の項参照)の供養塔が見える。新編鎌倉志に昔此所に阿仏尼の卵塔があつたと述べている。

さらに北に進むと、横須賀線の扇ケ谷跨道橋の手前にて海蔵寺へ向う道と交差する。ここを左に曲がり海蔵寺の方面に約百米程進むと、左に「仮粧坂・源氏山」の案内板が見える、ここが仮粧坂の入口である。

大仏切通案内図
仮粧坂付近案内図

住宅街の間をぬって歩いて行くと左手の角の崖下に半分壊れかかった矢倉が見える、中に比較的新しい石碑が建っていて、「水鑑景清大居士」と書かれている。俗に景清牢という。鎌倉攬勝考に依るとこの矢倉は平景清の牢と言われているが、真偽はよく分からないと述べている。

それ故、あまり気にしないで道を進むと、山の裾付近にて右の方に登る道に差しかかる,ここが仮粧坂である。一部にコンクリートの舗装跡らしきところが有るのが少々気にかかる。水の湧き出る坂に沿って左に曲がりさらに右に曲がると、勾配は急となり大変に険しく、道の真中に大きな岩が突き出ている。長さは約百米に満たない坂であるが勾配は約20%と大変にきつい坂道である。

昔はこの坂をどのようにして登ったのであろうか、戦にのぞむには当然馬も通ったであろうが、名前とは大いに異なり大変な坂道である。などと考えながらやっとの思いで登りきると、そこは平坦な道で車が通れる程の広さが有り、些か拍子抜けする。この登り坂が史跡仮粧坂である。

国の史跡の指定の範囲を見ると(三浦勝男著:鎌倉の史跡)仮粧坂の史跡指定の範囲はこの道を超えて南側の細い道まで達している。
この道は現在でも土地の古老達は旧道と唱えている七曲で、昔はここ迄が仮粧坂の内であったと思われる。現在の銭洗弁天の側を通る道は昔は大坂と呼ばれた狭い道であったが、第二次大戦のときに源氏山に高射砲陣地を構築するために拡張されたと古老が話していた。

仮粧坂より、この広い道を左に行くと源氏山の広場に出る、広場の中央には源 頼朝の像が建てられている、頼朝32才頃の肖像といわれている。鎌倉幕府開府八百年を記念して昭和56年に立てられた。

さらに東へ進むと源氏山の頂上(標高93m)に到達する。ここから東へ降りる小道を行くと、英勝寺の墓地の裏を通り、寿福寺の墓地の傍を通りて今大路へ出ることが出来る。

再び仮粧坂に戻り、広い道を今度は逆に西の方へと進むと、源氏山公園の中央広場(鎌倉市の広域避難所)が有る。

益々広くなった道の左に国指定史跡「日野俊基の墓」がある。俊基の事は先に太平記の俊基朝臣誅戮の項にて述べた様に、元弘の変にて捕らえられて葛原岡にて処刑された。

日野俊基の墓をお参りし、再び道を西に進むと正面に鳥居が見えてくる、この神社が葛原岡神社である。祭神は日野俊基にて、明治二十一年に創建された。

葛原岡大堀割

神社の右脇に山ノ内の浄智寺方面より梶原方面につながる小道が有り、ハイキングコースとなつている。この道を進むと深い谷に到達する、木の根に伝わりながら下に降りると、谷の一部に土が盛られて対岸に歩いて渡れる様になっている。ここが葛原岡大堀割で名越切通にて見た大切岸と同じ鎌倉の防衛線の遺跡である。

葛原岡大堀割の切岸
火の見下入口写真

鎌倉市史の考古編にこの葛原岡大堀割に関して次の様に述べている。

「梶原から一直線に仮粧坂に至る路は西方との交通路の一つとして重要であった。従ってこの路が尾根を越える部分である葛原岡が、防衛上重要地点の一つであったことは論ずるまでもない。然るに西方からの路に対する厳重な防衛状態の残存するものなく主として用いられた路が何れであるか充分わからぬが、葛原岡神社のある丘陵の北側に、ここから北側につずく尾根を大きく断ち切った大堀割が残存する。これは海蔵寺の背後と瓜ケ谷奥とを堀割って通じたもので、堀割った両側は切岸になっている。
現在ではその間に土を盛って狭い陸橋が形成されているので交通にさしつかえないからちょっと気がつかないが、陸橋上に立って左右を見ると、これが大堀割であることに気がつくであろう。即ち北方からの侵入者にたいし防衛する施設である」。

源氏山への道

仮粧坂付近案内図の下から時計回りに各々の道に就いて述べる。

先ず第一に仮粧坂から扇ケ谷に出る道、横須賀線の扇ケ谷跨道橋の下を潜ると岩舟地蔵堂の前に出る。御堂の角を左へ曲がり薬王寺の前を北に進むと亀ケ谷坂に出る、この坂を登ると山ノ内の長寿寺の脇に出る。北鎌倉方面への道の一つである。

第二に案内図にて左に回ると、英勝寺及び寿福寺方面から今大路に出る。ここからは鶴岡八幡宮に行くのは、巌大路を通りて東に進むと良い。また、鎌倉駅に行くには今大路を南に進めば、市役所の前に出て左手に駅の西口が見える。

第三は銭洗弁財天より佐助に出て由比ヶ浜通りの笹目に出られる。ここからは海岸に行くのも容易である。

第四は大仏ハイキングコースである、この道は距離は2Km弱にて、古道の様子を呈しており最後まで抜け道が無い。出口は大仏坂トンネルの南口に出るので、高徳院の大仏さんに近い。

第五は梶原の方面に出る道で住宅街の中を通り深沢、藤沢に出られる。

第六の道は葛原岡神社の脇を北に進み、大堀割を通り浄智寺・明月院方面に出るハイキングコースである。元気のある人は北鎌倉よりこの道を通り、更に大仏ハイキングコースへと抜けるハイキングコースがある。履き物・服装に十分に注意が必要。