巨福呂坂


巨福呂坂は「こぶくろざか」と呼ぶ,現在においては一般的には小袋坂と書かれている。鎌倉城の北の出入り口に当たり、現在においても横浜、大船方面より鎌倉に入る重要な幹線道路である。

巨福呂坂の名が始めて吾妻鏡に見られたのは、嘉禎元年(1235)十二月二十日の条で、次のように述べられている。
旧巨福呂坂の庚申塔
四代将軍藤原頼経が疱瘡の病にかかったので、病気治癒のご祈とうを御所の南庭にて行う。夕方に及んでより四角四境祭(陰陽道の災いを除く儀式。鎌倉幕府では、幕府の四隅でまつるのを四角祭。鎌倉の境界外部で行うのを四境祭という。:鎌倉事典)を行うとあり、この条の文中に四境として当時の鎌倉の境界に当たる巨福呂坂・小坪・六浦・片瀬の地名が書かれている。

その後の仁治元年(1240)十月十日に北条泰時の屋敷において、山ノ内に道路建設に関し沙汰があり、安東藤内左衛門尉(光成)が担当する事が決められた。

同じ月の十九日に北条泰時の沙汰として、山ノ内の道路建設が決定される。これは山ノ内が険難であるので往来に難儀する事からである。このように巨福呂坂建設の由来が具体的に吾妻鏡に記録されている。

それから十年後の建長二年(1250)六月三日に、巨福呂坂及び朝夷奈の切通が落石などにより大分痛んだので改修工事をするように指示があった、と述べられている。

その後の史料としては、太平記に元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めに巨福呂坂の名が見える。
「新田義貞はその軍勢を三方面に分け、各々の方面軍に二人の大将を付け全軍の指揮を執った。第二軍は堀口三郎貞満を上将軍とし、大島讃岐守を副将軍として、総勢十万余騎にて巨副呂坂へ差し向けた。」

新編相模国風土記稿には、古くは巨福呂、或いは巨福路とも書き、鎌倉七口の一つにして、鎌倉より山ノ内村に通じる上り三町程の嶺を村の境としている、と述べている。

弘安五年(1282)三月に僧一遍が巨副呂坂より鎌倉に入ろうとした際に、北条時宗と行き合いて一遍一行は鎌倉入りを阻止された。その時の様子を「一遍上人絵図」に詳細に描かれている。

さて、この様に多くを史書にて語られている切通であるが、実際はどこを通っていたのか気になるところである。この位置関係に関しては鎌倉市史に次のように述べられている。

鎌倉市史(考古学編)巨福呂切通:現在のものは明治以降に建設された物で(明治十九年五月開通)、古くはその上方が切通されていたし、更に古くはその西の谷を通っていたものと考えられている。

八幡宮裏石段を下って聖天坂に行く路があるがこれが旧道であり、聖天坂をまっすぐに登って尾根を切通し、建長寺前に下っていたものと考えて良い。

仁治元年(1240)の切通工事はこの尾根に加えられた改修工事で、もとは切通もなく尾根を越えていたものだったに違いない。その険阻な路を切通したので交通が少し楽になった程度で、その険阻なことが鎌倉城防衛上の役に立っていたのであろう。


史跡巨福呂坂案内図

史跡の巨福呂坂は、自動車が通る現在の県道横浜・鎌倉線の小袋坂とは異なる。八幡宮の石段の手前にある舞殿の脇を西に出ると、自動車のお払いを行う小さな広場に出る。この広場から道路を越えての西側に、飲食店が道角に建っている。この脇の小道が史跡の巨福呂坂の入り口である。


史跡巨福呂坂入口


この旧巨福呂坂の小道を百五十メートル程進むと道は二股に分かれている。左には横須賀市の水道管が通る専用の隧道がある。右に行けば道幅が次第に狭くなりつつ上り坂がさらに続いている。この二股の分かれ道の角に史跡巨福呂坂の標識が建っているのが見られる。

右の旧道を進むと道端に鳥居が立っていて、鳥居の先には石段が山の上の社にまで続いている。
ここが青梅聖天(おうめしょうてん)の社で、この社について新編鎌倉志に次のように述べている。

「青梅聖天は、雪ノ下より小袋坂へ登る左に小坂あり。巌窟の内に聖天の宮がある。このような事からこの坂を聖天坂と云う。
この社を青梅の聖天と云ういわれは、言伝えによると次のようである。昔鎌倉の将軍がある時に病が激しく痛み、その際に青梅を所望された。彼方此方と尋ねたさい、この宮の前にてにわかに青梅の実がみのった。この実を将軍に献上したところ、病が直つた事からこの名がついたといわれている。」

青梅聖天






青梅聖天の鳥居の脇を更に登ると、左側に道祖神および庚申塔が奉られている。さらに百数十メートル程進むと、道は突然に民家に突き当たりそこで終わりとなる。ここから先は民有地で通行は出来ない。
国指定史跡にしては些かお粗末な感じを免れない。

さて、回れ右をして元来た道を分かれ道まで戻ると、左に分かれた道は直ちに隧道に入っている。
隧道の遥向こうに出口がかすかに見えるので、新小袋坂を登って隧道の反対側の
出口を見ると、横須賀市水道送水管隧道と書かれている。この隧道も史跡巨福呂坂の真下を貫き通している。




新道を鎌倉から山ノ内方面に向かって歩くと、車道の幅員も広く一応歩道も設けられている。勾配もそれほどきつくもなく、車の往来も多い。
巨福呂坂洞門

古老の話によると「いまの小袋坂は、随分険しい坂だった。荒井閻魔堂(現在の円応寺)のところへでるには、こっちらからも向こうからも急な坂で、峠になっていた。何度か切り下げたらしいが、難渋な坂だった。」(鎌倉市文化財資料:としよりのはなし)

峠の位置に立派なロックシェドが設けられて近代的な道路となっている。シェドの脇に、この工事の説明碑が設けられている。

「史跡巨福呂坂:この落石防護施設は、鎌倉七切通の一つである。国指定巨福呂坂の近くにあるこにちなんで巨福呂坂洞門と名付けた。平成5年6月竣功 神奈川県」と書かれている。

この洞門を越えると左に円応寺、その先には建長寺、東慶寺、円覚寺と禅宗の寺院が続く山ノ内である。