名越切通


名越切通(なごえきりとおし)は鎌倉の東、逗子市との境の名越の山中にある。この道は往時は鎌倉から三浦半島に通じる要路にして戦略上にも重要な拠点であった。


史跡 名越切通

源 頼朝の時代が終わりを告げ、北条執権の時代を迎えると、頼朝時代の旧臣達は北条にとって脅威的な存在になったのである。

頼朝が没した年の末における梶原景時の追放から始まり、侍所別当の和田義盛を倒すなど頼朝時代の重臣達を次々と抹殺していったのである。然し、一番の脅威は三浦一族であり、この名越切通は三浦氏の居城たる衣笠城に通じる重要な道であり、北条氏にとって名越切通は、鎌倉防衛の戦略上の最重要拠点である。

名越切通の名称が史料に見られたのは、吾妻鏡の天福元年(1233)八月十八日の条に「鎌倉幕府の第三代執権北条泰時が江の島神社に参拝すべく出掛けたところ、由比ヶ浜にて死体を発見した。泰時は直ちに参拝を中止して幕府に戻り、評定衆を招集して対策を協議し、武蔵大路・西浜・大倉・横大路及び名越坂等の鎌倉の出口を固めて犯人を捜すように指示を下した。捜査の結果、名越坂付近にて直垂(ひただれ)に付いた血を洗っていた者を捕らえた。」と記述されていたのが最初である。

切通が何時頃からあったのか、又はいつ頃に現在の形としたのかは不明である。吾妻鏡の治承四年八月の条に、「石橋山の合戦に遅れた三浦軍が由比ガ浜にて畠山軍と戦になり、三浦軍が勝利し衣笠に帰る。」との記録があるが、三浦軍は名越坂を越えて行ったのか、あるいは海路かは不明である。いずれにしても昔から使われていた道を、北条氏の時代に要塞化したのであろう。

鎌倉側より登る

名越切通を訪ねるには幾つかの方法がある。
代表的な道は、JR鎌倉駅より京急バス「名越経由逗子行」に乗り「長勝寺」にて下車、国道に平行して走る北側の旧道に入る。

史跡 名越切通案内図


JR横須賀線に沿って東に進むと、右手に「日蓮乞水」の井戸がある、鎌倉五水の一つである。名越坂踏切を渡り、更に線路に沿って歩くと正面に器材置場がある。この塀に沿って進むと左に民家が建ち並ぶコンクリート舗装の登り道が続く。

途中の少々危ない仮設の桟道を渡り、左手の山裾に道祖神を見ながら山の小道に入る。横須賀線のトンネル入口の上の辺りで大きく右に曲がり、階段状の急勾配の道を登る。

名越坂踏切より鎌倉側の「国指定史跡名越切通」の標識まで水平距離にして約700mの距離、その間の高低差は約65m、勾配約9%といささか登りがきついが頑張って進むと、そこには中世の切通の世界が待っている。順調に行けば、JR鎌倉駅を出てから約30分位の時間しか経ていない。

この中世の切通の様子を説明するには、新編鎌倉志の表現を借用すると次の様になる。

「甚だ険峻にして道狭し、左右より覆いたる岸が二個所ある。大空洞(おおほらどう)小空洞(こほらどう)と言う」とある。


史跡名越切通

現在にても道は狭く人がやっと通ることが出来る幅しかない。両岸は険しく立ち、その上は平場となり敵を迎え撃つには最も適した地形である。このような険しい道が数百メートルに渡り右え左へと曲がりくねって続き、若し鎌倉を攻める目的で馬に乗り武器を携えていては、この切通を超えることは容易ではない。

逗子側より登る

先程は鎌倉側より切通に入ったが、三浦軍の一員となりて鎌倉を攻めるには、逗子側よりの道から入る必要がある。

JR逗子駅より「名越経由鎌倉行き」のバスに乗るか、あるいは先ほどの鎌倉駅からのバスにて更に東に進み、「法性寺」(ほっしょうじ)の次の停留場「久木新道」にて下車し、鎌倉行きのバス停近くの小道を山に向って入る。

道は右に大きく屈曲して住宅街の中を西へ向って坂道を登っていく。水平距離にして約1,000m、高低差は約50m、平均勾配は5%と大変に厳しい登り道である。
息を切らして登ること約十数分、右手の国道とJRの通る谷のはるか向こうに法性寺の祖師堂の屋根、その奥に大切岸の一部が見える。

さらに住宅街の中を登ると、正面のフェンスを通して山の上に名越貯水糟が見えてくる。国道よりここまでは住宅地として開発され、逗子側の往時の名越切通に至る迄の道は既に破壊されて今はない。

貯水槽の脇より狭い山道に入ると大きく右に曲がり、目の前に逗子側の「国指定史跡名越切通」の標識が建っている。標識の右手には切り立った岩が聳え立ち、左手も岩が迫って大きく「くの字」となって突き出して通路を塞ぎ、ここを抜けるのがやっとである。
何とかここを無事に抜けて薄暗い道をさらに進むと、右手に鎌倉側より登った時に見た「国指定史跡名越切通」の標識が立っている。

孔道を行く

標識の脇に、注意していないと見落とすような小道が斜めに登っている。この道を登ると上は平坦な平場となっていて、この平場に鎌倉軍を待機させ、下の切通を登ってくる敵軍を攻撃するに最適な場所である。

この広場より北の方に小道が続いている、新編相模国風土記稿に言うところの「又北方の山間に浄妙寺に通じる孔道あり」とはこの道を指すのであろうか。この孔道らしい道を北に向って進むと、左手に大切岸方面との案内板があり道が二つに分かれている。

左に行くと大切岸の上の狭い小道を通り、逗子ハイランド方面から宅間ケ谷を通りて竹の寺で有名な報国寺に至る。その地は鎌倉の浄妙寺である。

右に行くと民家の脇を廻って急な下り坂となり、法性寺の墓地を抜け祖師堂の前を通り、山門を通り抜けて国道に至る。この地は逗子である。

大切岸と平場

法性寺に抜ける坂道を進むと、左手の岩が人工的に垂直に削られている。さらに進むと墓地の裏手遙遠くに大きく切り立った崖が見える。この崖が、切通と共に設けられた鎌倉の防衛線として名高い大切岸(おおきりぎし)である。この切岸を平場と共に組み合せて数段からなる構造をし、総延長は約1kmあるといわれている。 (発掘調査の結果では大切岸は石切り場跡といわれる。2015/3/29)

切岸以外の山肌は、いずれを見ても断崖絶壁にして天然の要塞をなしており、切通以外は鼠一匹も通さない守りである。

大切岸と平場
大切岸と平場
大切岸と平場
曼荼羅堂跡の五輪塔
切通の工事もさる事ながら、この大切岸の掘削工事は当時の土木技術の水準から見て大変な作業であったと推定される。この様な事からも、北条氏がいかに三浦氏を恐れていたかが推察される。


小坪側の道

鎌倉より名越隧道・逗子隧道・小坪隧道と三本のトンネルが續いている。逗子隧道と小坪隧道の間にあるバス停「緑ヶ丘入口」にて下車し、逗子隧道の東側にある階段を登る。

距離にして約250m高さが約50mあり勾配20%と他の上り口に比較して大変に厳しいが、短時間に登るにはこの道がお薦めである。

この道を上り切ったところに「曼荼羅堂跡」の案内板が建っている。脇の小道を登ると、そこは堂跡である。寺の案内書によると、ここは曼荼羅堂跡と呼ばれているが、当時の史料は残っておらず詳しいことは不明である。
四季折々の花が有名で、特に六月頃は紫陽花や菖蒲を見に訪れる人々にて大変に賑わう。この地には沢山の矢倉、五輪塔等があり、往時の埋葬の地とも思われる。


お猿畠と法性寺

名越切通の北の山、法性寺の裏の峯をお猿畠と称す。法性寺の略縁起に依ると、文応元年(1260)八月二十七日の闇夜に暴徒が松葉ケ谷の庵室を襲い、火をつけてえ日蓮を殺そうとした。その時に山王権現の白猿が現れて日蓮を裏山の山王社に案内し、この山腹の岩窟に隠して難を逃れた。

この岩窟を霊蹟として寺を建て、猿畠山法性寺(えんはくさんほつしょうじ)と称すと述べている。新編相模国風土記稿にも略同様な由来を述べている。

新編鎌倉志には少し由来が異なり次の様に述べている。
昔この山に山王堂があった。日蓮が鎌倉に始めてきた時に、この山の岩窟に住んでいたが、村人は日蓮の事を良く知らず、蔑み憎み飯も与えなかった。
その時、この山より猿達が畠に集まり、食物を日蓮に供えたことからこの名が付いた。その後に日蓮は猿が食物を供えたのは山王権現の御利益であるとして、この山の南に法性寺を建立し猿畠山(えんはくさん)と号す。
山の中腹に堂あり、岩窟は堂の後ろにあり、洞窟の中に日蓮の石塔あり。堂の前に日朗の墓がある。寺の建立は弘安九年(1278)である。