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|  境内案内  | 歴史 |
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[ 寺号 ]     笛田山   仏行寺 (日蓮宗)

[ 所在地 ]
     湘南モノレールのレールの下から100メートルほど東にある深沢の交差点から南に500メートルほど鎌倉山の方向に進みます。最初の分かれ道を左にとり、右にカーブする道を道なりに進みます。(最初の分かれ道を右に行くと教養センターがあります。)間もなく左手の山に入る道があり、それに入ると左手に見えてきます。

[ 仏行寺の古建築 ]
     山門を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。
|  山門 |
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[ 境内案内 ]

     山門を入ると正面に本堂があり、山号の「笛田山」の額を掲げます。 本堂には、ご本尊の日蓮上人坐像が祀られています。
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     ここには三十番神(さんじゅうばんじん)という三十体の像が伝わっています。 三十番神は一ヶ月30日の毎日のお守り神で、そのうちのひとつが、笛田の鎮守「三嶋神社」のご神体とのことです。

     昔から、こちらの歴代のご住職が三嶋神社の別当を兼ねていたので、現在も正月3日間朝の勤行を行っています。


     本堂の左手から裏に回ると、池と山の斜面を利用した、よく手入のされた庭があります。
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     左手の崖際に沿って登ると眼下の庭園や本堂、さらには周辺の山などを眺めることができます。
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     さらに急な坂を進むと墓地があり、その奥、左手の山の頂上には、鎌倉時代の武将梶原景季 (かげすえ) の片腕が埋められていると伝えのある「源太塚」があります。
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     景季は梶原景時の長男で、父と共に源頼朝の下で数々の武功をあげましたが、頼朝亡き後、父景時が家臣に疎まれて鎌倉を追放になると、景季もこれに従いました。最後は駿河で討たれてしまいます。

     景季の死を悲しんだ妻信夫 (しのぶ) はここで自害したと伝えられています。


 
[ 歴史 ]

     仏行寺の始まりについては次のような伝があります。

     父梶原景時は頼朝の信頼も厚く、平家との戦いでは占領した地を任されるほどでした。しかし平家との戦では義経と対立し、後に義経を失脚させるなど、武将の間では評判のよくないこともありました。

     1199年に頼朝が亡くなると、和田・千葉・三浦などの重臣との対立が大きくなり、同年ついに鎌倉から追放されてしまいます。

     景季も父に従い西に去ります。やがて景時は甲斐の武田有義を擁して謀反を企てます。しかし、翌年京都に上る途上で景季は父景時とともに駿河で討たれて亡くなります。

     妻の信夫はこれを悲しみ、この地で自ら命を絶ちますが、その悲しみの声が毎夜のように聞こえてきました。

     その声を聞いた村人がその霊を慰めようと、明応4年(1495年)に佛性院日秀上人にお願いしこの地に庵を結んだのが始まりといわれています。

     昭和37年には、裏山の崖崩れで倒壊した本堂が再建され、翌年に書院が造られ、さらに最近書院も改築され、今日に至っています。


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