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|  境内案内  | 歴史 |
写真1 写真2

[ 寺号 ]    東 光 山    英 勝 寺 (浄土宗)

[ 所在地 ]
     英勝寺はJR 鎌倉駅の西口を出て100メートルほどまっすぐ進み、鎌倉市役所の庁舎が左手に見え、スーパーが正面で信号のある四つ角を右に曲がります。7~8分ほど北(横須賀線の東京方面に平行)に進むと、鎌倉五山の一つである寿福寺が右手にあります。その先の隣に英勝寺があります。

[ 英勝寺の古建築 ]
     英勝寺の古建築(仏殿、鐘楼、唐門、祠堂、山門(復興事業中))を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。
|  仏殿 | 祠堂 |  山門 |  唐門 |  鐘楼 |
仏殿 鐘楼 山門跡地 祠堂 唐門
 
[ 境内案内 ]
写真1      境内に入るには、惣門ではなくその先を塀に沿って60 メートルほど進んで小さいくぐり戸から入ります。 午前10時より午後4 時まで、山門復興事業をおこなっていますので拝観料300円をお願いしております。
(高・中学生は200円、小学生100円)

     市内で現在唯一の尼寺である英勝寺は、四季おりおりの花を楽しめ、また江戸初期の名建築が揃っていることでも名高い寺です。
     すなわち、寛永十二年(1635)建立で、内部に素晴らしい装飾が見られる仏殿、近世の鎌倉では唯一と言われる袴腰付の鐘楼、華麗な色彩を持つ英勝院の墓廟である祠堂、精巧な細工が見られる唐門など、すべて神奈川県指定重要文化財になっており、鎌倉を代表する貴重な遺構で、山門も再建を進めておりますので、これだけの建造物が揃うのはきわめて珍しいことです。

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     境内に入ると、左手に仏殿 (写真上、左) 、 さらに奥の左手に袴腰付きの鐘楼 (写真上、右) 、仏殿の右手に唐門 (写真下、左) と 祠堂 (写真上、右) があります。

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     受付のある庫裏の奥(山手)の一段高いところには書院 (写真下、左) があり、お茶がいただけます。
書院の左手には竹林があり、散策しますとしばし周囲の喧騒を忘れてしまいます。
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     境内は四季おりおりの花がさきます。名木トウカエデや四季折々の花に恵まれ、早春のウメ・マンサク・ワビスケから初冬のヒイラギ・スイセン・ヤブツバキまで多彩で訪れる人々を魅了します。
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[ 歴史 ]
     英勝寺は、徳川家康に仕えた英勝院(お勝の方 又は お勝の局)を開基として創建されました。お勝の方は、水戸徳川家 (よく知られている水戸光圀は第二代) の第ー代徳川頼房養母でしたので、水戸徳川家との関係も強く、水戸徳川家の姫君が代々住職をつとめました。 また戦国時代にあって文武両道の武将と讃えられた太田道灌ゆかりの地といわれています。

[ 江戸時代 盛時の英勝寺境内図 ] (英勝寺発行 『英勝寺』昭和43年 より) 写真10


     英勝寺の歴史を語るには、その創建 (1634年) から少々時代がさかのぼります。

     天正十八年 (1590) 関東八州を支配することになった徳川家康は江戸城に入りました。関東の名だたる武将を招きましたが、その中に太田家も武門の家として含まれていました。
     ところが、太田家には13才になる娘しかおらず、兄の重正は京都におりました。そこでこのお八という少女が出向くことになったのが英勝寺の始まりにつながります。

     大奥に入り、お梶と名を改め家康の側室になります。慶長五年 (1600) の関が原の戦いに馬に乗ってお供をしたと伝えられています。この戦いに勝った家康はお梶の勇気を褒め、「と改めよ」といわれ、以降「お勝の方」「お勝の局」と呼ばれました。多数の側室がいる中で、「お万の方」、「阿茶の方」、と並ぶようになりました。

     お勝の局は一女を生みますが4才でなくなります。そこでお万の方の生んだ男子を養子として養います。この子が後に水戸徳川家の初代、水戸頼房となりますので、お勝の局(後に建てられる英勝寺)と水戸家の関係ができます。

     お勝の局が聡明であることを示す話が色々ありますが、次の話もその一つでしょう。
     第二代将軍秀忠は長男の竹千代(後の第三代将軍家光)よりも弟の国千代を寵愛し、次の将軍と考えておりました。 ところが、お勝の局は竹千代が将軍になるのが正しいと主張し、春日の局を家康に会わすようにし、その結果三代将軍家光が実現することになったとのことです。

     元和二年(1616)家康が亡くなるとお勝の局は仏門に入り英勝院と号しました。 そして、寛永十一年 (1634) かねての願いであった寺の建立が実現し、先祖太田道灌のゆかりの地といわれる現在の場所に 英勝寺が建てられました。

     寛永十三年 (1636) には、頼房の娘の小良姫 (さらひめ) が開山として入ります。その後代々の住職は水戸徳川家からとなり、 江戸時代には徳川家の支援を受けおおいに栄えました。

歴代住職のお墓 (公開しておりません)
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     英勝院は寛永十九年 (1642) に亡くなります。 仏殿はすでに寛永十二年 (1635) に建っていたようですが、他のおもな建物は英勝院の亡くなったあとのようです。 山門(復興再建を予定中)や鐘楼惣門は寛永二十年 (1643) と考えられています。

     諸国漫遊記でおなじみの徳川 (水戸)光圀は、英勝院の亡くなった翌年、寛永二十年 (1643) の一回忌に英勝寺を訪ねています。また、延宝二年 (1674) にも鎌倉を訪れ『鎌倉日記』を著しますが、これは後の『新編鎌倉志』の生まれる基になったようです。

     江戸時代は徳川家との関係で盛んでしたが、明治以降は衰退を余儀なくされます。 しかし昭和 31 年には再興のための事業が起こり、同 38 年完成、今日見るような姿に復興されました。


     そして、最後に残った山門を復興させるための事業がスタートしました。完成しますと創建当初の姿が再現されるとこになりますので、文化事業としても山門復興事業の完成が待たれます。

[ 旧地における山門の姿] (平成19年5月現在、部材として境内に保存されています)
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