古建築のトップにもどる


|  境内案内  | 歴史 |
写真1 写真2

[ 寺号 ]    天 照 山    光 明 寺 (浄土宗)

[ 所在地 ]
     光明寺はJR 鎌倉駅からは逗子方面のバスで10分ほど、光明寺バス停で下車、すぐ左手に参道があります。

[ 光明寺の古建築 ]
     本堂を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。
|  惣門  |  山門  |  本堂 |
hondo sanmon somon
 
[ 境内案内 ]
     優美な趣の惣門をくぐると、広い境内とその先に雄大な山門を見ることが出来ます。
山門を過ぎると本堂のある広場に出、左手には事務所、右手には、鐘楼、神社、地蔵、板碑などが並んでいます。境内が広いのでいつでもくつろげる場所ですが、桜の時期や、10月中旬に行われるお十夜法要にはいろいろなお店がでるので、大勢の参拝者で賑わいます。
写真3 写真4

     本堂は中にあがりお参りすることが出来ます。中心には、本尊の木像阿弥陀三尊像、阿弥陀如来、向かって右に観世音菩薩、左に勢至菩薩が祀られています。

     阿弥陀三尊の向かって右手の部屋には、善導大師立像、八臂の弁才天坐像、左手の部屋には、阿弥陀如来立像、一番左には、法然上人の坐像が 祀られています。 写真5 写真6

     本堂の右側には、三尊五祖来迎の庭という枯山水様式に庭があり、八つの石が並べられており、 それぞれに、三尊として、阿弥陀・観音・勢至を、五祖として、釈迦・善導・法然・鎮西・記主をあらわしています。

     善導大師は、唐の浄土宗の僧で、法然上人が"心の師"として敬ったということです。鎮西(1162-1238)は浄土宗第二祖とされています。記主は開基良忠上人の伏見天皇から送られた諡(おくりな)です。
     近年作られたものですがしばらく眺めて心を落ち着ける最適の場所です。
写真7 写真8

     本堂の右方向には、網引延命地蔵とよばれる、正中二年(1325)作の銘のある石像が安置されています。
市内にはもう一つ網引地蔵と呼ばれる石像が扇ガ谷の浄光明寺にあります。こちらは正和二年(1312)で、造立年代も比較的近いものです。

     さらにその右手には板碑が立っています。表面の上部から、天蓋、中心に阿弥陀如来を表す梵字の「キリーク」、 その下に蓮華座が彫られています。こちらは、500メートルほど北にある五所神社にある板碑と対と考えられています。
写真9 写真10

     本堂の左手には庭園その中心には池があり、記主庭園と呼ばれています。小堀遠州の作と伝え、蓮の花の咲く時期には大勢の方が訪れます。
写真11 写真12

    

 

[ 歴史 ]
     光明寺は、浄土宗の関東総本山です。
     寺伝によると、開基は第四代執権の北条経時(1224-46)です。

     仁治元年(1240)、経時はJR鎌倉駅の西側の佐助という場所に然阿良忠上人を開山に迎え蓮華寺を立てました。
     この寺を寛元元年(1243)に現在のところに移し、光明寺としたと伝えられています。

     北条経時は第三執権泰時と第五代時頼の間に在任し、1242-46年と短期でした。二十歳前で執権になり、成人してきた第四代将軍頼経との勢力争いとその解任、第五代将軍藤原頼嗣の擁立などのほかは目立った業績はないようです。そして健康にも恵まれず、二十五歳にならずして亡くなりました。

     開山の良忠上人(1199-1287)は、三十八歳のときに筑後にいた法然の弟子の聖光上人の弟子となり、その後関東で浄土宗を広めたといわれ、招かれて開山となりました。鎌倉に入ったのは六十二歳のころで、七十八歳までの間ほとんど鎌倉で活動したとのことです。執権経時から第五代執権時頼さらに歴代の執権からの帰依をうけ、伽藍も整えられて、関東における念仏道場の中心となりました。

     さらに光明寺を高めたは第八世観誉上人のときです。明応四年(1495)に宮中で後土御門天皇に説講、きわめて感激されたとのことです。そこで当寺を勅願寺とし、十夜法要の許可を出されたとのことです。応仁の乱が終わり、足利義正の東山文化が興るなどしましたが、やはり戦国へと、大変不安な時代でした。
     以来 (現在は10月12〜15日に行われる) お十夜は盛大に行われ、境内には多くのお店が出、境内はに連日賑わいます。
     徳川家康が浄土宗の学問所として、関東の十八の寺を定めたとき、光明寺も選ばれ大変栄えたということです。

     内藤家 -- 内藤忠興 (1592-1674) は陸奥磐城平藩で第二代の藩主、1700年前半 内藤政泰、のちに改め政樹 (1706-66)のときから九州日向延岡藩の藩主となる -- の寄進も光明寺の繁栄に寄与しました。内藤忠興は国宝の当麻曼荼羅絵巻などの絵画や彫刻など多数を寄進し、また内藤家の墓地を霊巌寺(江戸)からここに移しました。
写真13 写真14

     本堂の右手(一旦境内の外に出て右手から裏に回る)の墓地には宝篋印塔など合計191の石造物があるといわれています。外側の高いところから眺めることが出来ますが、ここから奥に見えるものがより古いもののようです。

このページのトップにもどる
古建築のトップにもどる