トピックス

2021.01.20

 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将足立遠元は、父藤原遠兼が武蔵国足立郷に土着し、遠兼から足立を名乗ったといわれています。平治物語、吾妻鏡に拠ると遠元が源氏4代、義朝・頼朝・頼家・実朝に仕えたことがわかります。
 平治物語には、平治元年(1159)12月9日、藤原信頼と源義朝の夜襲(クーデター)が成功しその徐目が12月14日に行われ播摩守に義朝、右兵衞佐に頼朝、左兵衞尉に鎌田政家、右馬允に足立遠元が任命されます。しかし12月27日、後白河法皇が仁和寺へ、二条天皇は六波羅に脱出され、熊野から帰洛した平清盛が軍容を整えると平家は3000騎で内裏へ襲い掛かります。この時、特に目立つ働きをしたのが源義平ひきいる17騎の中の三浦義澄、渋谷重国、足立遠元、平山季重の4名です。
 次に吾妻鏡には、治承四年(1180)10月2日、頼朝の30,000騎が下総国から武蔵国に入ると、豊島清元、葛西清重等が傘下に加わったとあります。この日に遠元は命じられたとおり出迎えています。そのわずか6日後の10月8日頼朝への日ごろの心づかいが認められ旧領を安堵されます。他の武蔵武士が平氏についたのと違い領地を没収されていたと思います。中世の足立郡は、現在の埼玉県の東南部および東京都足立区の全域を含む地域です。
 寿永元年(1182)4月5日に頼朝の御供として文覚上人の勧請した江ノ島弁天に時政、義兼等と詣でています。
 元暦元年(1184)10月6日、新造した公文所の吉書始めがあり大江広元、中原親能、二階堂行政と伴に、足立遠元は寄人(職員)として参加しています。遠元以外はすべて京下りの官人です。
 
* 公文所=のちの政所になります
 文治元年(1185)10月24日、南御堂(勝長寺院)の落慶供養が盛大に行われ、導師として京から招かれた公顯と伴僧20人への布施は、砂金、銀、絹等莫大なものです。馬30疋を添えています。この一番目の御馬の担当を常胤と遠元がします。
 文治二年(1186)1月28日、頼朝と政子は遠元の家に行き、帰洛する一条能保と妻(頼朝の妹)へ餞別(帖絹、白布等)を渡し、妹には数カ所の地頭職を与えています。
 文治四年(1188)7月10日、頼家7歳甲をつける儀式では平賀義信、比企能員、小山朝政等が甲や弓を献上し、遠元は頼家が南庭を三廻り後下馬させる役を割り当てられています。
 文治五年(1189)7月19日、頼朝は、奥州の泰衡を征伐するため鎌倉を出向します。先陣は畠山重忠、鎌倉から出陣した総勢1000騎の中に遠元もいます。
 建久元年(1190)4月11日、御所南庭に於いて、頼家が始めて小笠懸を行います。遠元も招待されています。11月7日は頼朝の晴れの舞台となります。後白河法皇が密かに見物する大パレードを三条通リから六波羅まで挙行します。先頭は貢物の金を捧げる者、次に先陣畠山重忠が180騎をひきつれ、真中の頼朝は黒馬に乗り折鳥帽子、紺青の水干袴、紅衣の出立です。次に水干をつけた10人がつづき、遠元もその中に入ります。後陣の随兵138騎、後陣は常胤と景時です。12月11日法皇より10人を左右兵衞尉、左右衞門尉に推挙せよとの勅令があり、頼朝は左衛門尉として遠元を10人の中に推挙します。
 建久四年(1193)3月13日、南御堂にて後白河法皇一周忌の、千僧供養が行われ百僧ずつ10組が編成されます。その中の一組の奉行を遠元は努めます。
 正治元年(1199)4月12日、頼朝の死後、将軍頼家の訴訟親裁が停止され、有力御家人十三人の協議制となります。遠元、時政、義時、広元、善信、中原親能(在京)、義澄、知家、義盛,能員、盛長、景時、行政が選任されます。
 建仁三年(1203)11月15日、実朝に将軍が替わり信仰心を高めるためか、鎌倉中の主な寺社に奉行が任命されます。鶴岡八幡宮寺(義時、義盛、清図書允)勝長寿院(広元、朝政、宗掃部允)永福寺(重忠、義村、善進士)阿弥陀堂(時房、大和前司、遠元)薬師堂(源左近将監、常秀、藤民部丞)

永福寺復元CG(鎌倉市教育委員会より掲載許可済)
法華堂(景盛、結城七郎、中條右衞門尉)。
 承元元年(1207)3月3日、闘鶏会参加を最後に「吾妻鏡」から姿を消しています。少なくとも70代の高齢に達しており、程なく没したと思われます。
 承久三年(1221)に承久の乱がおこると幕府が勝利し、朝廷方が西日本に持っていた領地は幕府に味方した武士に与えられます。遠光の子、遠政(遠元の孫)は丹波国佐治庄に領地を与えられて移ります。足立氏の嫡流は弘安八年(1285)に起きた霜月騒動で衰退してしまったと考えられますが、丹波に移った足立氏の中には戦国時代まで栄えた者もいます。現在でも兵庫県には「足立」の姓が多く残っています。兵庫県には足立一族の墓があります。

画像左:兵庫県丹波市に残る足立一族の墓、画像右:埼玉県桶川市にある足立氏居館跡
(共に東京都足立区HPより転載許可済)(広報:か)


2021.01.13

《小坪の場所》
小坪は逗子市の西端にあり、鎌倉市の海岸の材木座の隣に位置しています。地名の由来は周辺から隔絶された小さな土地であるといわれ、古くは「吾妻鏡」にも地名として表記されています。

《小坪は鎌倉の南境》
小坪はもとは鎌倉郡に編入されていて、鎌倉時代に陰陽道における厄除け・疫病退散の儀式の一つである「四角四境祭」が東は六浦、南は小坪、西は稲村、北は山ノ内で行われていて、小坪は鎌倉の南境でした。

《鎌倉古道・小坪路》
古くから鎌倉から小坪を経て葉山・三浦方面へと通じる道として『小坪路』がありました。『小坪坂』『小坪切通』ともいわれています。軍事的、経済的にも重要な道でした。

《小坪路は古東海道》
律令時代には甲斐・伊豆から相模に入り三浦半島を越えて走水から東京湾を渡って常陸へと通じている「古東海道」があり、『小坪路』は「古東海道」の一部と思われています。

《小坪路と日本武尊》
「古事記」には日本武尊(ヤマトタケル)が蝦夷(えみし)征討の際、この古東海道の『小坪路』を通って、三浦半島の横須賀の走水から安房国へ赴き蝦夷へ向かったと考えられています。

《二つの小坪路と小坪坂》
この『小坪路』は二つありました。一つは材木座海岸の逗子寄りの和賀江嶋の先にある飯島岬の海沿いから小坪へ通じる険しい道筋で、現在は廃道となっています。
もう一つの『小坪路』は材木座の浄土宗大本山光明寺の背後にある鎌倉市立第一中学校の傍らから『小坪坂』を登って小坪6丁目に達する道筋です。

それは和賀江嶋の海岸近くにあるバス停「飯島」から光明寺の裏山の方向に進む道を登って行きます。
途中海を見下ろせば由比ヶ浜海岸が見えます(遠くには江の島、富士山が望めます)。


隧道をくぐって、第一中学校の校舎のフェンスづたいにさらに登った坂の頂点のあたりが現在の鎌倉市と逗子市の境です。

右側の民家の脇の階段を

海の方向に少し登ったところがいわゆる標高約70mの小坪峠。小坪路・小坪坂は続き、そこから先は細い道の下り坂になっていて、この辺りは「姥ヶ谷」といわれ現在は住宅街になっています。

しばらく下るとバス通りに合流しバス停「小坪」に出ます。ここで『小坪路』は終わります。
ここから道は披露山へと登り三浦方面につながっています。

《小坪坂と小坪合戦》
この『小坪路・小坪坂』は日本史に登場する合戦の舞台になりました。「源平盛衰記」に記述されている「小坪合戦(小坪坂の合戦)」です。
治承4年(1180年)8月17日 伊豆国で平家打倒を目指して挙兵した源頼朝は平家軍に行く手を阻まれ、石橋山の合戦で大敗を喫しました。頼朝の決起に味方するべく援軍に向かった三浦軍は折りからの大雨で増水した小田原手前の酒匂川を渡れず石橋山の合戦に間に合いませんでした。そして頼朝軍の敗北、敗走の報を受けてしかたなく三浦半島の領地に戻ることにしました。一方、平家方の畠山重忠(後ほど源氏方になる)は武蔵国から頼朝討伐を目指して出陣し相模に向かいました。8月24日、三浦軍が三浦に戻るため途中の『小坪坂』に向かった時、由比ヶ浜で平家方の畠山軍と遭遇しました。
平家方の畠山重忠の母が三浦氏総師の三浦義明の娘であったため両軍は和睦し、お互い兵を引き、当初は合戦になる気配ではありませんでしたが、ちょっとした行き違いが起こってしまいました。杉本城(現在の杉本寺の地)を守っていた三浦方の和田義茂(和田義盛の弟)が三浦軍が攻められていると勘違いして、畠山軍を攻めたため合戦が始まってしまったのです。畠山軍は500騎の軍勢で戦い、三浦軍の300騎は『小坪坂』周辺に布陣して両軍とも痛手を負い退却しました。

由比ヶ浜及びこの『小坪坂』で源平の両軍の激しい合戦が行われたと思われます。その後、畠山重忠は援軍の加勢を呼びかけ三浦氏の居城の横須賀の衣笠城を攻め落としました。

《癒しの地蔵像》
このように『小坪路・小坪坂』は歴史的に見て、鎌倉から三浦にぬける重要な道でした。崖がせまる厳しい海沿いの道に、平らな海岸線から急峻な山越えの道になっていました。
往来する通行人にとっては難所の道でした。多くの通行人の息災無事安全を祈願するためなのか、あるいは合戦の戦死者弔いの気持ち込めてか、『小坪路』の鎌倉側の登り初めの入口のやぐらの中と、『小坪路』の下り終えた終点にお地蔵さまが置かれていました。どちらも地元の漁師の網にかかり引き上げられたと伝わります。
鎌倉側は延命地蔵(石造地蔵菩薩坐像)で現在 光明寺大殿脇の祠の中に安置されています。
逗子小坪側は子育地蔵(石造地蔵菩薩立像)で現在 バス停小坪の前の地蔵堂の中に安置されています。

新型コロナウィルスの感染拡大がなかなか止まりません。緊急事態宣言下における行動自粛により感染が収束して、さらに感染が無くなる終息の道筋が見えてくることを祈念します。皆様十分ご自愛のうえ元気にお過ごしください。
(広報:な)


2021.01.08

この度の国の1都3県緊急事態宣言発令に伴い、鎌倉ガイド協会におきましては、下記の対応をとらせていただきます。

1. 事務所での日直業務を令和3年1月11日(月)~2月28日(日)まで停止させていただきます。
但し、緊急事態宣言終了予定日2月7日に再検討を予定しております。
* 現在、土日は休日としておりますので、実質、明日1月9日(土)以降とします。
2. つきましては、事務所の電話は留守番電話対応となります。また、メール等へのご回答も、通常よりお時間をいただく可能性がございます。

情勢の変化に伴い、上記の内容を変更する折には、当トピックス欄にてご連絡致します。

皆さまには大変ご迷惑をおかけしますが、ご理解ご了承のほど宜しくお願い申し上げます。
想像を超える感染者数の報道が続く毎日、どうか十分お気をつけてお過ごしください。


2021.01.06

(観光かながわNOW、神奈川の歴史巡り“歴旅”ボランティアガイドによる歴旅コラム-稲村ヶ崎の龍神伝説-NPO法人 鎌倉ガイド協会より)

稲村ヶ崎 かながわの景勝50選の碑(撮影:鎌倉ガイド協会 足立)
鎌倉にはかながわの景勝50選が3ヶ所ありますが、今回は「稲村ヶ崎」のご紹介です。「稲村ヶ崎」の名称の由来は、稲穂を重ねたように見えることからと云われています。鎌倉の海岸、由比ヶ浜と七里ヶ浜を分ける岬です。

万葉集(巻14-3365)には、「鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじ」と詠まれていて、「稲村ヶ崎」がその地であるとも伝わります。

稲村ヶ崎からの「江の島」と「富士山」(撮影:鎌倉ガイド協会 足立)
ここの砂浜が全体的に黒っぽいのは、地中に含まれる砂鉄のため。新編鎌倉志(江戸時代)には「黒きこと漆の如し日に映ずれば銀の如し」と記され、古くから、良質な砂鉄が採れるということで、古代にはこの地で製鉄がおこなわれていたのかもしれません。

「稲村ヶ崎」というと、まず思い出されるのが、新田義貞の龍神伝説ではないでしょうか。

元弘3年(1333年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、新田義貞は、新田荘生品神社で鎌倉幕府討幕の旗揚げをします。小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いと一時退却させられることはあっても、一路鎌倉に向けて進軍、僅か10日後の18日には鎌倉を取り囲み、仮粧坂、極楽寺坂、巨福呂坂という鎌倉の三つの切通に総攻撃をかけます。ただし、三方を山、一方を海に囲まれ、守りやすく攻められにくい天然の要塞『鎌倉』を、そう簡単には落とせません。攻めあぐんだ義貞は21日未明、この稲村ヶ崎で黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が大きく引き、幕府の水軍が沖へと流され、岸壁沿いに鎌倉に攻め入ることが出来たと伝わります。源頼朝以来、約150年続いた鎌倉幕府はこうして滅亡しました。

この伝説は、明治から大正にかけて、当時の文部省が編纂した尋常小学唱歌「鎌倉」の中で、「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎名将の剣投ぜし古戦場」と歌われています。

稲村ヶ崎石碑(撮影:鎌倉ガイド協会 足立)
というわけで何といっても、古戦場として名高い稲村ヶ崎ですが、一帯は風光明媚な海浜公園として整備されています。公園内に点在する記念碑めぐりもおすすめです。稲村ヶ崎に詳しくなれます。高台の東屋までぜひ上がってください。

夕暮れの景色(撮影:鎌倉ガイド協会 足立)
かながわの景勝50選の石碑は公園下に建ちます。ここから腰越海岸越しには、江の島や富士山が見え、天気がよければ海の向こうに伊豆大島や伊豆半島の山々も望むことが出来ます。夕陽が富士山頂に輝くダイヤモンド富士も、春と秋に年2回、4月上旬と9月上旬に楽しめます。

稲村ヶ崎(東側)(撮影:鎌倉ガイド協会 松林)
ビーチは映画『稲村ジェーン』をはじめ、数々の作品の舞台でも知られ、サーファーの憧れの地としても有名です。伝説の大波を待って開催される「イナムラ・サーフィンクラシック」を耳にされた方も多いと思います。

いかがですか?「稲村ヶ崎」を未だ訪れたことがないのでしたら、ぜひ一度お越しください。古都鎌倉の歴史にも触れられますし、海風に当たりながら眺める絶景は、きっと心に残るでしょう。(広報:ま)


2021.01.01

 自粛生活が続きますがお変わりありませんか?
旧年中は新型コロナウィルスの影響で、史跡めぐりが催行出来ず、皆様にはご迷惑をおかけしました。未だ収束は見えませんが、会員一同、皆様とお会いできる日を楽しみにしております。
 1月の事務所は、土日を除き、9:30~12:00迄。
皆様にとりまして本年が幸多き年でありますよう、お祈り申し上げます。
 向寒の折、くれぐれもご自愛ください。


2020.12.30

 鎌倉五山の一つ、壽福寺の北条政子、実朝の墓所とされるやぐらの手前付近に、フランス語で記された墓石があります。山田忠澄(1855~1917)とその妻マルグリット(1862~1950)のもの。夫妻は明治26年(1893)、リヨンで結婚し一男二女をもうけ、これからご紹介するキクは長女、明治30年(1897)リヨンに生まれました。(山田忠澄は長崎でフランス語を学んで渡仏、当時はリヨンの初代日本領事でした)
 明治41年(1908)、忠澄に帰国命令が出て、一家で東京へ。(キク11歳)
 父忠澄がウラジオストック総領事に任命された後退官し、家族のために、キクは16歳半頃からAP通信で働き始めます。(日本語は生涯おぼつかなかったものの、聖心女子学院国際科で学んだ英語が役立ちました)
 3年後、妹の花が富裕な家庭の高島直一郎氏と結婚。花は、鎌倉・材木座(現由比ガ浜)の2000坪の敷地を持つ西洋館(のちのロシア大使館鎌倉別邸)に住み、弟順太は大学卒業後、就職してパリへ赴任。
 経済的に家族を扶養する必要がなくなったキクは、フランスに戻り、フランス語で小説を発表、知識人・文化人が会する文学サロンに出入りし、ポール・ヴァレリーやジャック・シャルドンヌ等の知己を得て流行作家となりました。藤田嗣治の鉛筆デッサン47枚入りの共作?もあります。キク34歳の時、スイス人の画家(コンラッド・メイリ)と結婚。
 キクとメイリは、第2次世界大戦勃発前年、国際文化振興会の招きで来日します。当初1年の滞在予定でしたが、戦争のため帰国できず10年間、日本に足止めされることに。住まいは鎌倉-長谷(現長谷2丁目)。
 キクは、パリの文壇や、作家たちの素顔や、女性の生活について、新聞や雑誌に寄稿し、日仏会館やフランス大使館等で度々講演活動を行い、戦争中は同盟通信社(昭和11年設立の日本を代表する独占的通信社、昭和20年共同通信社と時事通信社に分離))に勤務、一方メイリは旧知であった有島生馬の斡旋で、東京の日動画廊で2回個展を開き、お茶の水の文化学院の教室を借りて油絵の指導にあたります。ところが、戦争が進むにつれ、次第に外国人に対する監視が強まり、メイリは40日間の拘留(裸婦像を好んで描いた故)、キクは3ヶ月スパイ容疑で留置所に収監。妹・花が病死する等悲しい出来事が続き、弟順太が帰国するのを待って、キクはフランスへ戻る決断をします。
 晩年(60歳)、フランスのレジヨン・ドヌール(シュバリエ)受勲。年老いたキクは夫メイリの意向もあり、スイスの小さな村に住まいを移し、最晩年は療養所で。享年77歳。
ご遺族からのご厚意でお借りした画像です。(ポストカードの一部)

 キク・ヤマタは日本とフランス、スイスに暮らし、日本と日本人のことを題材に、著作を残しました。キクは混血でしたが、父忠澄の影響を強く受け、フランスとその言葉を愛し、生涯それによってのみ考え、表現し続けた作家です。
戦前に発表された『マサコ』をはじめとする作品は、ジャポニズムに関心が寄せられていた当時、フランスで歓迎され、惜しみない賛辞を浴びたのですが、戦時中日本で逮捕され拘留された数ヶ月は彼女の心に深い幻滅・絶望を残しました。
 戦後、フランスでは、再び日本ブームがあり、一時期キクは『麗しき夫人』などいくつかの作品を書きますが、文壇の様相も変わり、また、残念ながら日本語の能力が不十分なキクには、必要とされた日本現代文学を紹介するような翻訳家の仕事ができませんでした。(注:源氏物語の部分訳、乃木将軍の生涯は出版されました)読者はキクが表現する程度の日本のイメージでは事足りなくなり、一方、日本の歴史や文化について、より充実した見識を持つ世代が育っていました。
時代から忘れられたようにひっそり亡くなったキクの墓碑はスイス-レマン湖を見下ろすアニエール村にあり、スイス人のご主人と眠っています。

 彼女の一生をまとめただけで、著作の内容にまで触れられず残念。キク・ヤマタは、第二次世界大戦を挟んだ困難な時代に意志をもって生きた職業婦人です。鎌倉にこういう女性もいらした、ということを知っていただけたら嬉しい限りです。

 新型コロナウィルスの感染状況には落胆しています。どうぞ、皆様、くれぐれもご自愛専一に。
本年も残り僅かとなりました。
くる年が皆様にとって幸多い年でありますよう、心よりお祈り申し上げます。(広報:ま)


2020.12.26

 18回目のネット配信では、トピックス欄レポート(12月分)を、PDFにてお申込みのお客様に送らせていただきました。
次回は、1月30日、もしくは31日の配信になります。


2020.12.24

 2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主たる配役も決まり、北条義時は小栗旬さんが演じることになったようです。脚本の三谷幸喜さんはこの主役と言ってよい北条義時をどのような人物とするのか、楽しみです。
 これまで北条義時や北条政子の一般的な評価はあまり良いものではありません。特に明治時代以降、朝廷への挑戦者は歴史上冷たく扱われました。北条義時然り足利尊氏然りです。北条義時は承久3年(1221年)の承久の乱で、朝廷を武力で倒した唯一の武将であり、三人の上皇を配流もしています。のみならず、江戸時代の歴史観でも武士道の道徳規範としての主君への忠誠に逆らって源氏将軍を途絶えさせ、将軍から実権を取り上げた「逆臣」「不忠の臣」という評価になっていきます。
 実際の北条義時がどんな人物か、北条義時に関する史料は「吾妻鏡」以外は僅かしかありませんが、北条義時を理解するには、その生涯を3段階に分けてみると分かり易いと思います。
第一段階は、誕生から37歳、源頼朝に最も近い側近として頼朝の死までです。次は少し短いですが、父時政と父子で組んで十三人の中から御家人の筆頭に上り詰め、43歳で父北条時政を引退させるまで、最後の第三段階は、執権独裁体制を築きあげて62歳で死去するまでです。

【第一段階】
 北条義時は源頼朝が伊豆に配流された3年後に、北条時政の次男として誕生します。姉の政子が7歳の時です。父時政が源頼朝を庇護している様を正に幼少の頃から身近で見て育ちます。治承4年(1180年)、頼朝が平氏討伐の兵を挙げた際には父時政、兄宗時と共に頼朝に従軍し、石橋山の戦いで、兄宗時が討死、以後北条時政の嫡男として行動を共にしていきます。
 鎌倉では、有力御家人の子弟、和田義茂、梶原景季らと共に頼朝の寝所を守る祇候衆の一人となりますが、平氏との戦いにおいて、一人義時は鎌倉に残って頼朝の側にいることが多く、出陣しても源範頼軍の一員のため屋島、壇ノ浦の戦いにも参戦出来ず、目立った軍功をあげる機会に恵まれませんでした。寧ろ頼朝の側近として幕府官僚である大江広元と近づき、頼朝の厚い信頼も得て、また頼朝から学ぶことも多く、優れた政治洞察力、あるいはしたたかな施政能力は、この頃に培ったものと考えられます。
 正治元年(1199年)源頼朝死去。義時37歳の時です。

【第二段階】
 源頼朝の死後、源頼家が二代将軍となりますが、この時有力御家人十三人の合議制が始まり、義時はその有力御家人十三人の一人として父時政と共に政治の中心に躍り出ます。他の十二人は鎌倉幕府成立以来の長老のなか、一人義時のみ38歳という若さです。
さて頼朝という武家の棟梁の象徴が無くなったことで、御家人同士の政争が始まるなか、時政・義時の父子は梶原景時追討の際にもその連署に加わらず、御家人の政争の圏外におりますが、梶原一族に続き建仁3年(1203年)には比企一族を倒し、二代将軍頼家を引退させ、源実朝を三代将軍とします。この頃から父、北条時政とその後室牧御方、一方北条政子・義時姉弟との相克が始まります。牧御方の讒言から始まった畠山重忠謀殺、更には実朝暗殺失敗などの陰謀から、時政は失脚し伊豆に引退させられます。
元久2年(1205年)、義時は北条時政の後を継ぎ、執権となります。義時43歳。

【第三段階】
 御家人による合議体制から北条家の独裁体制確立と朝廷という公家勢力との確執に決着をつける仕上げ段階となります。ここからは北条義時の一人舞台を、裏で源頼朝の未亡人の尼将軍・北条政子が支える構図となります。
 建保元年(1213年)最大のライバルである和田義盛一族を討ち、北条独裁体制で三代将軍源実朝を支えることになりますが、承久元年(1219年)には源実朝が二代将軍頼家の子・公暁に暗殺され、その公暁も殺され源氏三代の血筋が途絶えます。実朝暗殺の背景については諸説ありますが、義時によるものと見るのが自然でしょう。「吾妻鏡」には実朝右大臣拝賀の儀式の際、義時は御剣の役でしたが、前年に建立した大倉薬師堂の戌神将のお告げで役を源(中原)仲章に譲って難を逃れたと記されております。
さて、頼朝により初めての武家政権が成立しましたが、まだ朝廷が権威の源泉ということには変わりなく、朝廷側も機会さえあれば実権を取り戻そうとします。鎌倉幕府と朝廷が激突したのが、承久3年(1221年)の承久の乱です。北条義時にとって最大の危機でもありましたが、義時はこれを乗り越え、史上唯一朝廷を武力で倒した武人となります(あくまで院政の奸を取り除くという名目ですが)。江戸時代あるいは明治時代の後世の評価はともかくとして、源頼朝が始めた武家政権を全国政権として名実ともに完成させたのは、この北条義時とも言えます。
北条義時、58歳の時です。
元仁元年(1224年)脚気により急死、嫡男泰時に後事を託します。享年62歳でした。

義時の墓は伊豆韮山の北條寺にあり、鎌倉に現存する義時ゆかりの地は、頼朝の墓の東隣の「法華堂跡」と建保6年(1218年)に建立した大倉薬師堂(現在の覚園寺)だけとなります。

なお、姉である北条政子はその翌年に亡くなります。(広報:ほ)


2020.12.22

 いつも当協会をご利用いただきありがとうございます。
令和3年1月から再開を予定しておりました当会主催の古都鎌倉史跡めぐりですが、新型コロナウィルス感染拡大の状況を考慮し、やむを得ず中止させていただくことになりました。1月だけではなく、2月3月も中止と致します。
 4月以降につきましては、今後の国や県、市の動向を見ながら、できる限り迅速に、改めて当ホームページトピックス欄でご案内致します。
 ご参加のお申込みをいただいておりました皆様には再びご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳なく思っております。どうぞご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。

 また、個別ガイドに関しましても、恐縮ですが、1月は中止させていただきます。2月以降につきましては、史跡めぐり同様、後日、改めまして当欄にてお知らせ致します。

 会員一同残念でたまりませんが、穏やかでない感染者増加を重く受け止め、皆様の一層のご自愛をお祈りする次第です。皆様とご一緒に、安心して、再び楽しいひとときを過ごせる日が早く来ることを願ってやみません。


2020.12.17

 今回は、鎌倉幕府初代問注所執事の三善康信(1140-1221年)です。
 三善康信は、大江広元に次ぐ幕政の立役者で、関東武士団と融和して鎌倉幕府宿老の地位を固めました。
問注所業務は、今でいえば裁判所のようなところで、社寺、個人に対する所領安堵、恩給の盛行、訴訟で、特に厄介な領地紛争の安定化などです。
 康信は、鎌倉に下って間もなく入道して善(ぜん)信(しん)という法名を名乗ります。(弱冠23歳の時、二条天皇と中宮育子の破格の厚遇を賜り、専任の中宮大夫属となったことから中宮大夫属入道善信と呼ばれている)
 母親の姉が頼朝の乳母を務めた縁故により、頼朝の流人生活の間、乳母の甥の立場から頼朝の安危を気遣い、月三度の京師(けいし)情報を送り届けた事はよく知られるところです。(これら康信の事跡は「吾妻鏡」に詳しい。)
 康信は、後白河法皇制下、蔵人方五位出納を務め、源平内乱末期に命を受け、頼朝の分身となって鎌倉体制の政務を補佐します。鎌倉に骨を埋めて37年、後白河法皇や頼朝が望んだ恒久平和社会再建を天命に、公武の一体的調整と政治的安定の根幹となる京と鎌倉の連絡、連携と組織化に貢献しました。承久3年(1221年)の承久の乱に際しては病身の身で会議に参加、大江広元の即時出兵論を支持、同年、承久の乱後に没します。
 康信の出自についてですが、算博士家三善氏の一族と考えられ、算術を研究する家柄です。特に康信の母方の外祖父為康は、鳥羽院政期には正五位下諸陵頭(しょりょうとう)兼算博士に出仕し、天皇家周辺を守り、時代を代表する文人の名声を高め世間から注目を集めた史実があります。その縁故が続き、康信の母の姉が結婚後、熱田大宮司季(すえ)範(のり)邸に招かれ季範娘の由良御と義朝の子頼朝の教養と躾を担当する乳母に召され、頼朝につながるのです。
頼朝と康信は、神祇官大中臣倫兼のもとで育った姉妹から訓育を受けたことになり、従兄弟のような関係だったかもしれません。幼児から神ながらの道に親しんで育ち慈悲深く、神官文化は共有され、頼朝が康信に格別の縁故を重ねたと思われます。
 「鎌倉史列伝」は、鎌倉代官問注所執事としての康信の実績は、公平無私で控え目の折り目正しい穏やかな人間として記述しています。
 参考文献;「三善康信 初代問注所執事 鎌倉幕府の組織者」三島義教著

 ところで、問注所の所在ですが、元暦元年(1184)当初は、大蔵幕府内に創設されますが、その後、建久二年(1192)善信の名越邸に移転。正治元年(1199)四月一日;幕府郭内に停止していた問注所を郭外(所在不明)に開設されるなどしています。 
現在、鎌倉駅西口に近い御成小学校前東南の一角に問注所の旧跡の石標が建てられていますがその根拠は不明です。

 手前にかかる裁許橋の名称は「吾妻鏡」には見られませんが、「新編鎌倉志」には、佐助谷より流れ出る川に渡せる橋として登場しています。また、別名と伝わる西行橋については、頼朝が鶴岡参詣の時、二の鳥居に近い橋辺りで西行に遭遇したことから西行橋と云う、との記載が見られます。「新編相模国風土記稿」においては「西行橋」と記されるのみ。はっきりはしないのですが、ともかく「裁許橋」があったので、その先の広大な邸宅の一角を問注所としてしまったらしいのです。
 再来年の大河ドラマが楽しみです。(広報:も)


2020.12.11

 本年7月30日付けトピックス「お万の方(養珠院)の七面山登詣」の中で、日本の女人禁制登山の解禁における偉業に思いを寄せ、比企ヶ谷の長興山妙本寺にある徳川家康の側室お万の方(家康没後髪を下ろし養珠院と号す、1577~1653)の供養塔について述べた。
 江戸時代特有の形をした高さ3.6mもある宝篋印塔は、左側面に紀州大納言源頼宣・水戸中納言源頼房の銘が刻まれていて、母お万の方への謝恩のために兄弟が建立した供養塔である。実はこの塔の右隣にも全く同じ形・大きさの宝篋印塔があり、同時に建てられた、お万の方の師である心性院日遠(ニチオン)上人の供養塔である。二基並んでいるのは、二人の関係をいみじくも象徴している。 

 今回のトピックスではこの二人について改めて述べる。

 お万の方は上総勝浦城主正木邦時の娘として天正5年(1577)に生まれ、戦乱で逃れた伊豆の地で成長した。17歳のとき沼津本陣で徳川家康(52歳)に見染められ側室となる。その美貌・知性ゆえ、元和2年(1616)75歳で没する家康の晩年において、最も寵愛された女性である。
 紀州藩祖徳川頼宣(10男)、水戸藩祖徳川頼房(11男)の生母(頼房の養母は英勝寺開基の英勝院(お勝の方))であり、紀州藩で8代将軍となった吉宗以降14代将軍家茂までの将軍、孫の水戸光圀や15代将軍となった慶喜をも子孫に残した、まさに徳川家の礎ともいうべき人物である。
 お万の方は慶長3年(1598)年22歳の時に、日蓮宗信徒の養父蔭山氏広を亡くし、法華経信仰への帰依を深めた。当時高名な日重(身延山久遠寺第20世)、日乾(身延山久遠寺第21世)を師事した後、そのあとを継いだ日遠(1572~1642)の説法に心服した。慶長9年(1604)行学に優れた日遠は、33歳で身延山久遠寺に晋山(第22世)し、お万の方から宗祖日蓮聖人の再来と尊崇され、生涯の師とする深い帰依を受けた。
 家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠らを不快に思っていた。慶長13年(1608)11月15日、江戸城での浄土宗・日蓮宗の問答対決を不利とみて、直前に日蓮宗側の論者(日経)を家臣に襲わせた。日蓮宗側は瀕死の重体で宗論の場に臨まされ、一言も答えることができず、浄土宗側が勝利した。(慶長の法難、その後日経とその弟子は投獄、拷問を受け、翌年京都六条河原で耳切り・鼻そぎの刑に処せられる。)
 この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしよう(駿府の法難)としたため、お万の方は家康に日遠の助命を嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。するとお万の方は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、一緒に処刑されるための、日遠と自分の2枚の白装束を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した。このお万の方の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も感動し、「南無妙法蓮華経」と七文字書いたご宸翰を、お万の方に下賜されたという。
 大野山本遠寺(ホンノンジ)は山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗の別格本山である。慶長13年(1608)慶長の法難の連座を不徳とし、総本山・身延山久遠寺を隠退した日遠の草庵から始まり、日遠を開山、お万の方(養珠院)を開基として創建された。別名「お万さまの寺」とも称される。お万の方は二人の子供、紀州藩主徳川頼宣と水戸藩主徳川頼房に命じて大伽藍を寄進させ、境内が整備される。

 お万の方(養珠院)は承応2年(1653)8月21日江戸紀州藩邸において77歳の天寿を全うした。墓所は遺言により、この寺にある師・日遠上人の御廟に並んで、紀州藩主徳川頼宣によりつくられた。壮麗・雄大な高さ4.55mの宝篋印塔、正面の石門と周囲の玉垣の細工など、紀州藩が派遣した石工の手によるものと推定され、当時の最上級の技術・部材により造り出されたもので、山梨県指定史跡とされている。


 お万の方(養珠院)は丹誠厚い日蓮宗外護により、新寺建立、霊跡復興に尽力し、江戸時代の日蓮宗発展の礎をつくったともされるその功績から、各地にも祀られている。
 日遠は受不施義(他宗・不信者からの布施・供養を受け入れる)の関西学派の頭領として、当時隆盛を極めていた日奥・日樹らの不受不施義を主張する関東学派に対し、鋭く論陣をはった。寛永7年(1630)2月20日江戸城内での受・不受の宗論(身池対論)では、幕府権力を背景に不受の関東学派を打ち破り、その後幕命を受けて不受不施派に代わって、日遠が池上本門寺貫主となった。(日奥・日樹らは流罪となる。)
 しかし翌年に弟子の日東に池上を譲り、自らは鎌倉経ヶ谷に不二庵を建てて隠棲した。この庵にはお万の方(養珠院)をはじめ多くの信徒が度々参詣して法話を聞いたという。日遠は寛永19年(1642)2月下旬に病を感じ、日蓮聖人入滅の地を慕い、鎌倉から池上本門寺に帰り3月5日71歳で示寂した。
 日遠上人の晩年は、名実ともに宗門を代表する高僧として仰がれ、師の日重、兄弟子日乾と共に、「宗門中興の三師」と評される。
 妙本寺に仲良く並ぶ二人の供養塔の前で、改めて二人の師弟関係、波乱万丈の人生と成した偉業に思いをいたし、深い感慨を覚えた。(広報:よ)


2020.12.04

 義盛は桓武平氏の流れをくむ、相模の大豪族三浦大介義明の孫として久安3年(1147)に生まれ、三浦郡和田に所領があったことから和田氏を称します。父杉本太郎義宗は鎌倉の杉本寺に城館を構えており、この地は六浦路の要衛で三浦一族勢力拡大の重要な拠点です。また和田は三浦半島の南端にあり湊も備えた海の武士団として活躍するのに適した土地です。
 来迎寺(材木座)の本尊阿弥陀三尊は三浦大介義明の守護仏と言われています。ここには源頼朝が、衣笠城落城の時89歳で討死した義明の冥福を祈って建久5年(1194)に建てた真言宗の能蔵寺があったと伝わります。義明と多々良重春の墓が二基並んであります。(重春は小坪合戦で討死した義盛の叔父従兄弟(修正12/13))

 衣笠城から逃れて舟で安房へ行く海上にて石橋山合戦に破れた頼朝の一団と出会います。この時頼朝に「平家を滅ぼしたら侍所の別当にする」との約束を交わし幕府成立後かなえられたと言われています。
 義盛は頼朝・頼家・実朝三代にわたり御家人の統制機関である侍所の別当を勤めます。義盛は頼朝の東国平定、西国遠征に、奥州征伐に従軍し活躍します。
 牧(修正12/13)氏陰謀事件によって北条時政が出家引退し、幕府の実権は義時に変わります。梶原景時、比企能員らが討滅されていきます。義盛は幕府初期からの功臣であり御家人の最長老であり侍所別当という職掌の上からも御家人社会に隠然たる勢力を持っていました。幕政に独裁的権力をふるわんとする義時は色々な策を用いて義盛を挑発し、和田一族を一挙に族滅しようとします。義盛は忠節廉直の鎌倉武士でしたが政治的思慮に欠ける面があり、比較的単純な性格の持ち主であったために義時の術中におちいってしまいます。
 建暦3年(1213)2月に発覚した泉親衛の事件が和田の乱の発端です。泉親衛が源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立して義時を打倒しようと企てた陰謀に加担したとして、義盛の子義直、義重と甥の胤長が捕らわれます。しかしこの件は義時が義盛を挑発し失脚させる絶好の機会となります。義盛は実朝に息子や甥の救済を願い出ます。息子の義直と義重は許されますが甥の胤長は乱の張本人として許されず陸奥の国に配流となり邸宅は没収されます。甥胤長の邸は今の荏柄天神社の前にあったと言われます。胤長の屋敷は義盛に与えられ義盛の代官久野谷弥太郎を住まわせましたが、義時は弥太郎を追い出し金窪行親と忠家に与えてしまいます。この挑発で義盛は合戦を決意します。
 義盛に加勢した武将は、和田常盛、朝盛、義直、義重、義信、朝比奈義秀、岡崎実忠、更に横山党の横山時兼、海老名、波多野、渋谷高重、中村党の土肥惟平、土屋義清、鎌倉党の梶原朝影、大庭景兼、等々です。その中で三浦惣家の三浦義村は一族の義盛に味方するという証文を書きながら裏切り義時に密告します。
 5月2日義盛は一族とともに挙兵、大倉幕府、北条邸(宝戒寺)、若宮大路、琵琶橋、下馬四角で市街戦が展開されます。(画像は宝戒寺です)

 5月3日義時と大江広元は将軍実朝の名で御教書を発しました。これに多くの御家人が応じ幕府軍は大軍となり和田軍を押し返し、夕刻までに和田一族は次々と、討たれ義盛(67歳)も若宮大路で討死します。一族の中で朝比奈義秀のみ生き延びて舟で安房に逃れたと伝えられています。

和田塚

 建保元年、鎌倉幕府内部抗争による北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍を埋葬した塚として伝承されています。
和田塚の前身は古墳時代の墳墓であったと言われています。大正末年ごろ開墾などによって多くの塚が壊されましたが、五輪塔をならべた和田塚はかろうじて残っています。鎌倉の歴史を語る上で貴重な遺跡です。

宝戒寺で見つけた、サザンカでしょうか、椿でしょうか、和田義盛に捧げます。(広報:か)


2020.12.01

 いつも当協会をご利用いただき、ありがとうございます。
12月の事務所の日直業務は土日を除き、9:30~12:00迄です。
なお、令和3年1月の古都鎌倉史跡めぐりにつきましては、Aコースの実施日15日(金)、Bコースの実施日22日(金)は、未だ少し空きがございますので、参加ご希望でしたら、どうぞお早めにお申込みください。


2020.11.30

満員御礼
1月Aコース(新春!鶴岡八幡宮参拝と、鎌倉の福神を巡る)実施日1月13日(水)は、定員に達しましたので、申込を締め切りました。
ありがとうございました。


2020.11.28

満員御礼
1月Bコース(新春!霊峰富士を仰ぎ、鎌倉の福神を巡る)実施日1月20日(水)は、定員に達しましたので、申込を締め切りました。
ありがとうございました。


2020.11.28

 17回目のネット配信では、トピックス欄レポート(11月分)を、PDFにてお申込みのお客様に送らせていただきました。
次回は、12月26日、もしくは27日の配信になります。


2020.11.27

【1】
三浦義澄』プロフィール
時代  平安時代末期~鎌倉時代初期の武将 生誕は大治2年(1127年) 死没は正治2年(1200年)
墓所  横須賀市大矢部 薬王寺跡(廃寺)
官位  三浦介 相模国守護
幕府  鎌倉幕府の有力御家人 13人の合議制の1人
   三浦義明(義澄は次男)
   伊東祐親(大河ドラマ出演者発表済み)の娘 
兄弟  杉本義宗 佐原義連 他
   三浦義村(大河ドラマ出演者発表済み)他

経歴
 三浦半島を拠点に置いた三浦氏は代々源家に仕えた家柄で三浦義澄は源義朝の家人として平治の乱に参加したが、平家方に敗れ京都から郷里に落ち延びた。兄の杉本義宗が亡くなり三浦氏の家督を継いだ。治承4年(1180年)源頼朝(大河ドラマ出演者発表済み)が挙兵した石橋山の戦いには悪天候のため参戦出来ず、引き返す途中、平家方の畠山重忠(大河ドラマ出演者発表済み)との衣笠城合戦で敗れ、父である三浦義明は討ち死にし、父の命により安房へと逃れ房総半島へ渡ってきた頼朝軍と合流した。のちに頼朝に帰伏した畠山重忠らと共に鎌倉に入った。その後、源範頼(大河ドラマ出演者発表済み)に従って平氏を追討し、一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いや奥州征伐などにも従軍して戦功を重ねた。

人物像①》度量の大きさ
 衣笠城合戦で父義明を討った平家方の畠山重忠が源氏に帰伏すると個人的な恨みを捨て共に戦おうと重忠をこころよく受入れ、頼朝の信頼を勝ち取り平家討伐で武功を上げた。

人物像②》引き際のいさぎ良さ
 建久元年(1190年)これまでの功績によって官位を推挙されたが「若い者に与えたほうがやる気も出るだろう」と息子の三浦義村にすんなりと譲った。

人物像③》除書(じしょ)の受取り役の勤め
 建久3年(1192年)頼朝を征夷大将軍に補任する除書(任命書)を勅使から受取る役に選ばれたことは大変名誉ある大役であった。信頼の証となる。

人物像④》頼朝からの信頼
 頼朝は三浦氏累代の功績に対し義澄を厚く処遇し、義澄もそれに応えようと頼朝に仕え幕府の十分経験を積んだ宿老として幕政の重要な役割を担った。

人物像⑤》13人の合議制の1人
 頼朝が死去した後には2代将軍源頼家(大河ドラマ出演者発表済み)を補佐する宿老による13人の合議制のメンバーの1人となった。

【2】
旗立山(鐙摺山、軍見山)》 伊東祐親供養塚  
三浦義澄の妻の父は伊東祐親(義澄にとって伊東祐親は義父、妻は祐親の長女)

 伊東祐親は伊豆国伊東の豪族。平安末期の武将で平清盛(大河ドラマ出演者発表済み)から信頼をうけて、平治の乱に敗れて伊豆に配流された源頼朝の監視を任されていた。
祐親が京に上洛しているうちに娘(祐親の三女)が頼朝と通じて子をもうけてしまう。これを知った祐親は激怒して、その子を殺害しさらに頼朝自身の殺害を図ったが頼朝は知らせをうけ受難をまぬがれことなきを得た。
その後時が流れ、頼朝が平家を討伐して源氏の時代になると、かつて頼朝に不信をはたらいたかどで祐親は生け捕りにされた。そして娘婿の三浦義澄に預けられた。
義澄は頼朝に助命嘆願をして功を奏し、一時は一命を赦されたが前の罪はのがれがたく、葉山の鐙摺(あぶずり)の地で首をはねられた。(自害して果てたとの説もあるが、現地掲示板の内容に合わせた)

 鐙摺・葉山港の脇にある旗立山は高さ25mほどの小山で、鐙摺山、軍見山とも呼ばれる。前述の衣笠城合戦の際、鐙摺城にいた三浦義澄がこの山に旗を立てて気勢をあげたことから旗立山と呼ばれるようになったと伝わる。
この旗立山の頂上に打ち首された伊東祐親の供養塔の塚が残る。小高い山の頂上からは逗子湾~鎌倉沖合の先に江の島が遠望出来、その先には伊豆伊東がある。

 またこのあたりの鐙摺の地名は伊豆蛭ヶ小島に配流されていた頼朝が治承元年(1177年)に密かに三浦に訪れ鐙摺山に登った際、馬の鐙(あぶみ)が摺(す)れたことからこの名が付いたとされている。(広報:な)


2020.11.25

 新型コロナウイルス感染症拡大防止のため中止しておりましたが、史跡めぐり同様、個別ガイドを令和3年1月から再開させていただきます。お客様のご希望のコースで、お一人様からご案内致します。
詳しくは当HP「ご希望コースのガイド」のページをご参照ください。お申込み、お待ちしております。


2020.11.24

 いつも当協会をご利用いただきありがとうございます。
1月史跡めぐりBコース(実施日20日)にお申し込みになられたお客様への返信作業に若干の遅れが生じています。
必ずお返事させていただきますので、今しばらくお待ちください。
宜しくお願い致します。


2020.11.20

 かながわの景勝 50 選「稲村ヶ崎」からは年に 2 回、春と秋に、⼣陽が富士山頂に輝くダイヤモンド富士を見ることが出来ます。 今年 9 月初旬、初めて撮影にチャレンジしてみました。当日は朝からどんより曇っていたのですが、夕暮が近づくにしたがい、晴れ間がのぞき、ひょっとしたらと急遽稲村ヶ崎へ。日没少し前に、ほんのわずかですが、沈む夕陽と富士山のシルエットを撮影することが出来ました。

 さて、次に向かったのは、稲村ガ崎 4 丁目 6~7 番地です。往年の挿絵画家「高畠華宵」が 35 年間暮した邸宅があった場所になります。平成 7 年(1995)3 月 25 日と日付が入った稲村ガ崎自治会発行の冊子「いなむらがさき」 の 4 ページ目:「高畠華宵 この地での三十五年間」という記事に触発されました。 (先輩ガイドからいただいた資料です)

 「高畠華宵」をご存知でしょうか? お名前よりも、この方が描かれた作品を一目ご覧になったら、絶対、あぁ懐かしいって、きっとどなたも口にされると思います。 個人的にですが、小学生の頃読んだ本の挿絵は、そのほとんどが高畠華宵によるものだったかもしれません。その絵に惹かれて、買って欲しくてたまらなかった記憶があります。 もちろん少年少女向けの挿絵だけではありません。高畠華宵は、竹久夢二らと並ぶ人気画家でした。
こちら、「口まね」 1931(著作権フリー)

 愛媛県宇和島市出身。内弟子の加藤清一氏が稲村ガ崎の出身でその父親が名工だったということもあり、ここ稲村ガ崎に「華宵御殿」「挿絵御殿」と呼ばれる和洋折衷の豪華な邸宅を建てたのだそうです。建物が完成して移り住んだのが大正 13 年の暮れ。
ベランダの前には、山や海が広がり、静かな波の音と潮の香を含んだ風がそよぎ、そして こだわりぬいた調度品に囲まれるという生活。自然の花をこよなく愛し、いつも裏山や庭に咲く花で部屋中を飾ったそうです。山百合 4、50 本をドーンとアトリエに活けたとか。松本品子編「高畠華宵」によると、質の高い贅沢な品々は、華宵が美しい絵や流行を次々に生み出すために必要不可欠なものであったそうです。夜を愛し、いつも夜を通して起き、神秘な夜のとばりの中で絵を描いた、ともあります。冬はビロードの上着、夏は薄い絹のシャツとズボンで仕事をしたそうで、これはまさしくおとぎの国の住人です。
 ハイカラでモダンな趣味を持つ華宵は、音楽を好み、当時は贅沢品であったレコードの収集家でもありました。日本ビクター蓄音器株式会社の広告用として制作された作品もあります。
(著作権フリー)

この作品を描くにあたっては、レコードの立体感を表現するのに大変苦労したそうです。

 華宵は戦後、経済的に貧窮し、健康にも恵まれず、全盛期とは程遠いほど凋落した生活を送りました。そんな中、華宵のファンであったという弁護士の鹿野琢見(かのたくみ)氏に出会い、やりとりをするようになり、鹿野氏の尽力や、それまでの華宵の作品のファン層からの後押しもあり、回顧展で再びブレイク、人気が再燃しました。お亡くなりになったはその後。亡くなられた日に挿絵画家としては初の勲五等双光旭日章を受けたということです。(墓所は鎌倉霊園)

 さぁ、そんな華宵を偲びながら歩いた稲村ガ崎 4 丁目 6~7辺り、平成 7 年にはまだ、その奥ゆかしい佇まいの邸宅が残っていたようですが、それから四半世紀経った現在、残念ながら、既に新しい住宅街に様変わり。稲村ヶ崎の駅からそう離れていません。落ち着いたいい場所です。稲村ガ崎には昭和の初めから、大勢の政財界人・画人・文人が別荘を持ちました。高畠華宵はその草分けでしょう。

 とりとめもないレポート、申し訳ないです。秋が深まりました。空気が澄んで稲村ヶ崎からの夕陽が美しい季節です。紅葉狩りのついでに、是非稲村ヶ崎にもお立ち寄りください。(広報:ま)


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